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(オレだってこんなの嫌だ)
美咲は美咲で苦労しているのを知っている。
ひとつ下の彼女は、中学時代春芳と同じ学校に通い、彼が虐められて不登校になったのを見ていた。
それが原因で彼女もからかわれていたと思う。
きっと辛い思いもたくさんしたと思う。
美咲に問題はないのに、春芳の妹というだけで矛先を向けられて、理不尽な思いをしたに違いない。
そのころから兄妹の絆は薄れ、もはや他人より遠い存在になってしまった。
分かっているからこそ、美咲だけを責められず自身の胸を痛める。
春芳は読んでいた本を閉じた。
通学鞄に入れると、立ち上がる。
この部屋にいたら余計に惨めな気持ちに押し潰されそうだった。

「いつまでもずっと待っているから」

昼間あった男は、苦手なタイプで、二度と会うこともないと思っていたのに、なぜ今になって胸をよぎる言葉が聞こえるのだろう。
なぜ脳裏に必死な顔が蘇るのだろう。

「春芳? あ、あなたどこへいくの」

部屋から出た彼に母親が声をかけてきた。
それを無視して突っ切ると、制服姿のまま家を出て行く。
ヘッドホンは美咲に叩きつけられたまま部屋の隅に置いてきた。
昼の強烈な日差しは消え、柔らかな月の明かりが彼を照らす。
(待っている、なんて初めて言われた)
こっちに来るな――とは、何度も言われたことがあるけど、待つは記憶にない。
そんなの口先だけの言葉で何の力もないのに、今はそれにしか縋れなかった。
藁にも縋る気持ちで声の方へ導かれていく。
醜き社宅の妖怪は、常に孤独で頼れる人はいなかった。
見ず知らずの男の言葉に惑わされるほど心は弱り萎れかかっていた。

午後九時、こんな遅くの繁華街に来たのは初めてだった。
下を向き、そわそわしたまま足早に美容院へ向かうと、周囲の人間は異様な出で立ちに怪訝な顔をして道を譲った。
知らぬが仏。
春芳は好奇な眼差しを向けられていることにも気付かず、無心で歩き続けた。
そうしてつい数時間前に飛び出していった美容院の前まで戻ってくる。
美容院はクローズの看板を掲げ表は閉まっていた。
中にぼんやり明かりが見えるものの客はとっくにいなくなり、開く様子すらない。
もらった名刺を取り出すと営業時間が書いてあり、八時には閉店するようだった。
悉く上手くいかないことに渇いた笑い声を響かせる。
長い前髪から僅かに見えた外装は白を基調としていて、いかにも都会の洒落た美容院だった。
改めて自分が場違いだったと覚り、唇を噛み締める。
周りは眩いほどのネオン街で、いたるところに派手な電装が取り付けられていた。
目がチカチカして、目蓋が震える。
道の先には大きな交差点があって、たくさんの人が行きかっていた。
昼間の賑わいとは違った喧騒は、恐さを通り越して別世界に来たような違和感を覚える。
音で溢れた街にいると、些細な音は気に留めなくなり耳に入ってこなくなった。
立ち止まったままの春芳に、多くの人がぶつかりそうになり、横をすり抜けたサラリーマンが舌打ちをして去って行く。

「……あれ、君?」

するとその中で凛とした声が響いた。
咄嗟に反応し、頭で考えるより先に体が動いて振り返る。
賑わう人ごみの中で、買い物袋を手にした近藤がこちらへ向かってきた。
春芳の姿を見つけて驚いた顔をしている。
それはそうだ。
数時間前に言い合って出て行った人間が店の前にいる。
相手は妖怪と噂されるほど醜い風態の男だ。

「あ、あの……その……」

さすがの春芳も謝るべきだと分かっていた。
向き合って対峙すると、いつもの癖で、下を向いたままどもってしまう。
勢いで来てしまったのに、どう説明すればいいのか分からなくて困った。
昂ぶった感情のまま行動を起こしたせいで冷静になれない。
それほど春芳は追い詰められていたのだ。

「セールストークを真に受けやがって」
「お前なんか格好良くなれるわけないじゃん」
「どのツラ下げて来たんだよ」

そんな風に笑われてしまわないだろうか。
いつものように陰でコソコソ悪口を叩かれはしないだろうか。
不安だけは執拗に頭を巡り、負の螺旋から抜け出せない。
人は容易く人を傷つける。
少なくとも春芳の周りにはそんな人間しかいなかった。
今だってそうだ。
目を閉じると人々の声が聞こえてくる。
誰がウザイだの、誰がキモいだの、せせら笑う悪意の言葉たちだ。
聞き続けていると気持ち悪くて吐き気がする。
ざわざわと雑音だけがノイズのように聞こえて頭の中を支配する。
春芳は苦しさに目を瞑った。
右手を胸元に置いて強張った心臓を宥めようとする。
(やっぱり来なければ良かった。部屋の中でうずくまっていれば良かった)
無駄な音だらけの世界に眩暈を起こし、今すぐ膝を抱えて耳を塞ぎたくなる。
そうして彼は苦痛から逃げてきた。
学校や家でも塞ぎこんで、自らの世界に閉じこもった。
――その時。

「俺、近藤巧海って言うんだ」
「……っ……!」

胸元に置いた右手に人の温もりが走った。
ざわついたノイズの中に先ほどと同じ凛とした声が響く。
無意識に顔をあげた。
前髪でほとんど見えなかったけど、見ようとした。
あまりに澄み切った声が聞こえたからだ。

「君の名前、教えてよ」

(この人、こんな声……してた?)
どうしてさっきは気付かなかったのだろう。
柔らかくて気が緩んでしまうような優しさを含んでいる。
彼は笑っていない。
微笑んではいるけど、馬鹿にはしていない。
純粋な好意のもとに声をかけている。
そして春芳の言葉を待っている。

「お、お……オレは……」

なぜか胸が詰まった。
名前を訊かれたくらいで泣き出しそうになった。
高校生にもなった男が泣いてどうする。
そうして叱咤するのに、視界が滲み華やかなネオンの光も霞んでぼやけた。
強すぎた光は柔らかい明かりに変わり二人を優しく包む。

「オレは……川中春芳……です」
「春芳君か。いい名前だね」

右手に触れていた手がそっと頭を撫でた。
まるで子供をあやすみたいに大きな手のひらが髪の毛に触れる。
名前を褒められたなんて初めてだ。
笑うところではないと分かっていて、口もとが勝手に緩む。
近藤には見えないだろうに、なぜか気恥ずかしくなった。
こんなに自然に笑ったのは久しぶりで、上手く笑えているか分からなかったからだ。

***

近藤の自宅は美容院の二階にあった。
この店自体彼の兄の店で、最上階には兄夫婦が住んでいるという。
家にお邪魔した春芳は、淹れてくれたお茶を飲んで気を落ち着かせると、ゆっくりと自分のコンプレックスを話すことにした。
顔をからかわれたことや、馬鹿にされたこと、それが原因で虐められて不登校になり、通信制の学校に通っていることまでも。
近藤は見た目軽そうなのに、真剣に耳を傾けてくれた。
どもって上手く話せない春芳に気遣い、時間をかけて言葉を引き出してくれた。
そうして語り明かしたころには賑やかなネオンは眠りにつき、代わりに東の空から膜を張ったような陽が顔を出した。
薄日が射した窓辺は、網戸にしていたせいか風でカーテンが揺れていた。
明るくなると一軒、また一軒と街の明かりが消えて静かになる。
話し疲れたのか春芳はソファに座ったまま眠りについた。
ここ数年で最も穏やかな眠りだった。
次に目が覚めたときにはもう昼を過ぎていて、携帯を取り出すと家から何件もの着信が入っていた。
とはいえ今の時間は母親もパートに行っていて繋がらない。
諦めて閉じると、ちょうど良くドアが開いた。
現れたのは近藤で、手には近くのパン屋で買ったと思われるサンドウィッチがある。
先に起きた彼は店に出ていたらしく、服装と髪型がキマっていた。
どこから見ても格好良くて、つくづく春芳と別世界の人間だと覚る。
もし彼のような容姿をしていたら、違った人生を送れていたのかと考えて、無理だと首を振った。
身の丈に合わないものを持っていても生かすことは出来ない。
彼が淹れたコーヒーを飲みながら遅すぎる昼食をとると、一階へ下りた。

「俺に任せてよ」

近藤は自信たっぷりに笑うと、春芳を店へ案内する。
とうとう髪の毛を切る決心を固めたのだ。
春芳は変わりたかった。
そして変わるきっかけを探していた。
昨日会ったばかりの人間を信じられるほど無防備な性格ではないが、近藤なら――と、直感が言っていた。  
外敵から守る役割の前髪がなくなることは死ぬほど恐い。
だが、昨夜近藤は言った。

「大丈夫。髪の毛なんて数ヶ月で伸びるもんだよ。恐いならまた引きこもればいい」

外に出ろとは口を酸っぱくして言われたが、引きこもれと言われたのは初めてだった。
たった半日しか一緒にいないのに、彼はたくさんの初めてをくれる。
ならもっと初めてを託してもいいと思った。

「こ、近藤さんに全て任せます」
「うん! 楽しみにしていてね」

全身鏡で対峙した自分はまさに妖怪そのものだった。
何年も直視していないから恐怖より驚きが勝った。
不安で思わず眉間の皺が深くなったが、近藤に手を引かれ、及び腰でシャンプー台へと向かうのだった。
髪を切られている最中、恐くて顔は見られなかった。

入り口から一番端の目立たない席で、近藤によって切られている。
耳にはサロンで流しているジャズと、店員たちの声、そしてハサミの音が響いていた。
シャキシャキ、シャキシャキ……。
すぐそばで真剣な顔をした近藤がハサミを手にして春芳と向き合っている。
迷いなくザクザクと切られて、心臓は高鳴るばかりだった。
無駄口ひとつ零さず、視線は常に春芳にある。
軽快な音と共に軽くなる頭は、今まで背負っていた過去も一緒に切り捨てているようで心まで軽くなった。
肩にまでついていた後ろ髪も首が見えるほど短くされて涼しい。
切り終わるともう一度シャンプー台へ乗り、お湯で洗い流してくれた。
近藤の手のひらが丁寧に髪を洗い、頭皮のマッサージをしてくれる。
温かい湯と心地好い指の感触に夢を見ているような気になった。

「きもちいい?」
「は、はい」
「良かった」

頷くと顔に置かれたタオル越しに笑われたような気がした。
でも嫌な感じはしなくて、気分は高揚したままだった。
そうしてどれほど経ったのだろう。
席に戻ってからはずっと目を閉じ大人しくしていた。
髪の毛を乾かし、弄られると、しばらくして両肩に近藤の手が乗る。

「出来上がったよ」

耳元で優しく囁かれ、緊張はピークに達した。
声に導かれるように目を開ける。
今まで鏡の前にいても絶対に見なかった視線を恐々自分に合わせた。

「あ……っ……」

そこには見違えるほどの春芳がいた。
一瞬目の前にいるのが誰か分からなかったほどだ。
驚きすぎて肩が上がったまま強張る。
目を白黒させると、信じられないといった顔で近藤を見つめた。
すると彼は目を細め、春芳の髪の毛に触れる。

「ね、俺が言った通りすっごい綺麗な顔をしてるでしょ?」
「……っぅ……」
「街で見た時から絶対に間違いないって思ってた。むしろどうして前髪で隠しているのかと思った」

春芳はスッキリとしたショートになっていた。
顔のラインに合わせて梳き、緩やかなカーブになっているサイドは鬱陶しくならない程度にもみあげが残されている。
前髪は眉毛と同じくらいに切り揃えられ、涼しげな目鼻立ちが際立って見えた。
もとから小顔で色白のせいか黒髪がよく栄えた。
合わせ鏡で見せてもらった後頭部も丸みがあり、下は刈り上げられて首元が何年ぶりに晒されている。

「髪質も良かったからもったいなくて染めなかった。なにより春芳君は黒髪がとても似合うと思ったから」

近藤は鏡の中の春芳に目を合わせながらひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
生まれてからこの方、弄ったことすらない眉毛も、やりすぎない程度に整えられていて、まるで雑誌の中のモデルみたいだった。

「本当に綺麗な顔。春芳君のご両親はきっと素敵な人なんだろうね」
「そ、そんな……」
「彫が深い二重やスッとした鼻だけじゃないよ。顎のラインや頭の形も綺麗。全部好きだな」

(本当にこんなことが……)
気付けば周囲にいた客や店員がみんな春芳を見ていた。
昔から人の注目を集めるのは苦手だった。
大抵陰口を叩かれていたからだ。
しかし、今、この場にいる人間は、誰ひとりとして彼を悪く言わない。
皆が春芳の顔を、髪型を褒め、賞賛の声をあげている。
(すごい……)
妖怪をこんなにも違う生き物に変えるなんて信じられなかった。
二つを並べたとして、誰が同一人物だと分かるだろう。
まさに魔法の手だ。
春芳は近藤のかけた魔法によってまったく違う自分へと生まれ変わったのだ。

「よしっ、じゃあ次!」
「え……?」

近藤は道具の入ったポーチを外すと、力が抜けたままの春芳を引っ張り、美容院を出て行った。
どうやら彼はまだ満足していないらしい。

「髪の毛の次は服だ!」
「はっ、えっ……でもっ……」
「いいから俺に任せろって!」

まだ明るい繁華街を引っ張られて、もたつきながら歩いた。
戸惑う春芳を尻目に楽しそうな近藤が次から次へと服屋につれていく。
目まぐるしく変わる世界の中で、いつの間にか春芳も楽しんでいた。
誰かと服を買いに行くなんて初めての経験だったからだ。
近藤は値段に糸目をつけず、似合う服や気に入った服は全部買い漁った。
陽が沈むころには全身彼がコーディネートした服を身に纏っていた。
その姿はどこから見ても虐められっ子の引きこもりには見えなかった。

「うんうん。可愛い」

ことあるごとに春芳を見て近藤は微笑む。
あまりに嬉しそうだから謙遜も忘れて俯いた。
(お世辞じゃない。気遣いでもない)
近藤は思うがままに伝えてくれる。
今までならきっと卑屈になって「嘘つけ」と歪んだ感情を膨らませていたけど、彼には否定できなかった。
照れくさくて上手く反応できなかったけど、それも相手が察してくれるから、いつまでも心地好い空気が流れていた。

「なんでも好きなもの頼んでね」

買い物がすべて終わると、食事に連れて行ってくれた。
人が苦手な春芳のために個室の店にしてくれた。

「あ、あのでも……オレ……」

そう言ったところで、目の前に指を差し出される。
遮るように近藤の指が唇に触れた。

「でも――は、禁止」
「は?」
「春芳君ってすぐにでもって言うじゃん。もったいないよ、そういうの」
「……っ……」
「俺はね、したくてしているんだから気にすることないの。眉間に皺寄せて〝でも〟って言うくらいなら、笑ってありがとうって言ってくれたほうが嬉しいよ」

すると先ほどまでの真剣な顔は消え、ニコッと笑ってメニューを開いた。
何もなかったかのように飄々とした態度で春芳に接する。
(ありがとう、か)
そういえばどれくらいありがとうと言ってないのだろう。
子供のころは悪いことをしたらごめんなさい、何かしてもらったらありがとうを言えたはずなのに、気付けばどちらの言葉も出てこなくなった。
言いたい瞬間はあった気がするのに、喉の奥が渋滞して出てこない。
それに対して僅かな歯痒さが芽生えた。

食後送ってもらうと、一日ぶりに春芳は自宅に戻った。

「ただいま」

そうドアを開けた瞬間、向こうの部屋からバタバタと激しい音が聞こえてくる。

「は、は、春芳!? 春芳なのっ」

そういえば昼間携帯を見たっきり鞄の奥深くに入れっぱなしだった。
つまり昨日以来連絡はとっていない。
しまった――と、思った時には遅く、玄関にいた春芳の前に母親と美咲が駆け込んできた。
引きこもりの息子が一晩どころか一日帰ってきていないのなら大事件である。

「は、はるっ――!」

だが二人は、春芳の姿を見た途端その場で固まってしまった。
驚異の変化を目の当たりにして仰天すると声を詰まらせる。

「た、ただいま……」

やはり変かと髪に触れれば二人が息を呑んだ。
母親の隣にいた美咲がずいっと前に出る。

「ま、マジなの? 本当に……」
「どっ……どうせまたキモいって言いたいんだろ」

凝視する彼女を睨みつけると、ビクリと肩が震えた。
それは予期せぬ反応で、春芳も困惑する。
また罵倒されて喧嘩が始まると思っていたからだ。
一瞬川中家は静寂に包まれる。
だがそれは本当に一瞬で、次の瞬間には母親が抱きついてきた。

「どうしちゃったのっ。まるで俳優さんみたいに素敵じゃない!」
「ちょっ、母さん。それは言いすぎだよ」
「全然言いすぎじゃない。あまりに格好良くて誰だか分からなかったわ」
「……えっ……」
「こうしていられないわ。美咲、今夜はお寿司取りましょ。急いで電話してちょうだい」
「分かった」
「は? ちょっと、待って。オレっ、今日はもうご飯食べてきた」
「え、えええっ! あの春芳が外食したのっ? んまああああああ」

彼女は大混乱で、興奮しながら泣きついてきた。
特別何かしたわけではない。
髪を切って食事しただけだ。
だが、春芳にとっては大事件で、母親の反応は間違っていない。
それでも年頃ゆえか、母親に抱きつかれるのは居心地悪かった。
うろたえながら引き離そうとするが、しがみつかれて離れない。
胸の中で泣く彼女はいつもより弱く見えて当惑した。

「……でも、無事に帰ってきてくれたことが、一番嬉しい……」

(オレなんかを心配した?)
取り出した携帯には何十件もの着信履歴が残されていた。
メールもかなりの数を受信している。
キッチンには、まだ手をつけていない晩御飯が並んでいた。
春芳を心配し、帰ってくるまで食べないで待っていたのだろう。
ひとつひとつの皿にラップが巻かれていた。
それを見ながらふと考える。
どんな思いで帰らぬ息子を待っていたのだろうか、と。
だがどんなに慮っても彼女の気持ちは計り知れなかった。
昨日までの春芳なら鬱陶しいと思ったかもしれない。
大げさだと嫌がるかもしれない。

 

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