6

***

当日は快晴、雲ひとつない夏空が広がっていた。
学祭ということで、講堂に限らず多くの生徒や、外部の人間でごった返していた。
目玉のファッションショーはたくさんの人で溢れ、二階席まで超満員だった。
朝から用意に慌ただしく、鮎沢はもちろん近藤とも話すチャンスは訪れなかった。
舞台裏はまるで戦場で、スタッフの誘導する声があちらこちらから聞こえてくる。
その間に次々とショーは進み、着替え室とメイク室は常に賑やかだった。
それぞれ華やかな衣装を身に纏い、自信に満ちた顔で出て行く。
送り出すデザイン科の生徒やヘアメイクの生徒も楽しそうだった。
春芳も着替え終えると、近藤にヘアメイクをやってもらった。
鏡の中で向き合う自分は、ほんの数ヶ月前と全然違う。
鏡越しに近藤を見れば、今日も真剣な眼差しで作業していた。
昨日男に言ったことなど微塵にも感じさせない態度は、やはりプロだと思った。
軽々しく見えるけど、信念を持って仕事に取り組んでいる。
デコレートした帽子を被るということで極力髪はシンプルにすることで決まった。
斜め横に髪を分けると、毛先にワックスをつけて遊ばせる。
片方だけサイドの髪を耳にかけると、ピンで留めた。

「可愛い可愛い」

目が合うと柔らかく微笑んでくれた。
その表情には嘘がなくて、春芳も目を細める。
(近藤さんに触れられるのは好きだ。……いや、近藤さんが好きなんだ)
もたられた小さな変化は大きな実りとなって返って来た。
芽生えたのは淡い恋心で、今になって気付いたことに苦笑いを浮かべる。
見つめられるとドキドキした。
触れられるとドキドキした。
今まで他人の纏わりつくような視線に嫌悪しかなかったのに、今は違った緊張が胸を貫く。
心は正直で、隠したくても隠せないから困ったものだ。
初恋ゆえの戸惑いは心地好く酔わせてくれる。
それは味わったことのない幸せな気持ちだった。

「はっけーんっ」

ちょうど準備が終わったころ、後ろから声をかけられた。
振り返ると鮎沢で、彼女は今さっきランウェイを歩いたところだった。
姉デザインの衣装は赤と金の着物をモチーフにしたもので、ハッキリした顔立ちに派手なメイクの彼女は、妖しい魅力を漂わせて似合っていた。

「わぁ、マジで全然違うじゃん。やばいよそれ~」
「…………」
「ホントにカッコイイ! めっちゃ似合うじゃん」

ショーの興奮が冷めあがらずテンションは高かった。
戸惑う二人をよそに相変わらずの図々しさで隣に居座る。

「ね、本当は整形したんでしょ? ……お願いっ、絶対に内緒にするから病院教えてよ。本気で探してるんだって」

そう耳元で囁いた。
他人に対するデリカシーは欠けても、こういう話は気恥ずかしいらしい。
昨夜言い返したことなどすっかり忘れて暢気に振舞う横顔は憎らしいを通り越して尊敬した。
裏を返せば、彼女にとってその程度の出来事なのである。

「マジでこれがあのガリ男かと知ったらみんな驚くだろうなぁ。っていうか、川中君ケー番教えてよ。昨日訊こうと思ったのに、さっさと帰っちゃうからさー」

近藤の前で過去の話はやめて欲しかった。
どこまで無神経なのだろうと吐き捨てる。
彼女のことは本気で覚えていなかった。
虐めの主犯格すら曖昧でぼやけている。
当時の写真や卒業アルバムは全部捨てた。
すべてなかったことにして、心の平静を保ったからだ。
(でも、もう逃げない)
不安や怖れで勝手に手が震える。
それを隠すように握り締めて耐えた。
会場に過去を知っている人たちがいるというだけで冷や汗が流れるのに、直前に彼女の話は訊きたくなかった。
でも絶対に逃げたくなかったから耐える。
昨夜のように感情のまま怒りを露にするのも、ウジウジ自分の殻に閉じこもるのも、もうやめたのだ。

「はーい。そこまで」

その時、近藤がパチンと手を叩いた。
――かと思えば、春芳の腰を抱き寄せて鮎川と距離をとる。
いきなりのことで、何事かと彼を凝視した。

「君のような節穴に春芳君の番号を訊く資格はないかなあ」
「え?」
「ついでにもうちょい考えてから言葉を発しないと、これからの人生色々大変かもね」
「い、意味わかんないんですけど」
「なら少しの間口を閉じてた方がいいよ。口は禍のもとって言うじゃん。じゃないとお兄さん、君のこと嫌いになっちゃうかも」
「はぁ? あ、あたしはただ、川中君と整形の話を――」

その言葉に近藤の顔つきが変わった。
珍しいほど険しい顔に、彼女は続きを言えず声を詰まらせる。

「どこをどう見たら整形なの? どこもかしこも可愛くてメスを入れる必要なんてないでしょ」
「それはっ……昔を知らないだけで……」
「昔から綺麗だよ。そんなの見なくたって分かる」
「なっ……」
「綺麗なのは顔だけじゃないからだよ。全部が綺麗で全部が可愛い。それに気付けなかった君たちは節穴以外の何でもないよ。本来なら見ることすら気に食わない」

誰にでも人懐っこく、誰にでも優しい近藤が静かな怒りを見せた。
彼女はおろか春芳すら声をかけるのも躊躇うほどで、賑やかな室内の中、周囲だけ静かになる。

「でも格好良いって評価は正しいから、遠くからなら特別に見せてあげるよ」

それは暗に近付くなと制している言葉で――。

「ちゃんと自分の言葉を省れたらうちの店においで。その痛みきった髪の毛くらいならサラサラにしてあげる」
「こ、近藤さん……っ」
「さ、行こう」

最後まで皮肉たっぷりに言い切った彼は、にっこり微笑んで春芳の腕を引いた。
向こうではスタッフが必死に呼びかけている。
そろそろ班がスタンバイに向かわねばならない時間なのだ。

「あ、あのっ……!」

引っ張られながら彼女の方へ振り返った。
未だに呆気にとられた顔で見ている。

「オ、オレも自分で別人のように変わったって思ってた。違う人間になったって信じ込んでたんだ。……でも本当は違う。今も昔もオレはオレだ。そこをちゃんと認めなくちゃ前には進めないよな」
「川中く……」
「みんなによろしく言っておいて。ガリ男は元気にしてるって」

春芳は笑って言い放つと、彼女のもとを去った。
見えなくなるまで口をぽかんと開けて動かない。
その姿が間抜けで思わず吹き出してしまった。
あれだけ胸元に淀んでいたものは綺麗さっぱり消えて、清々しい気分になっている。
何より鮎沢に言ったのは自分へ言い聞かせた言葉でもあった。
逃げないし、目を逸らさない。
確かに近藤との出会いで春芳は大きく変わった。
でも変わったからといって別人にはなれないし、なる必要もない。
ガリ男と呼ばれた過去があって、今があるのだ。
どちらも切り捨ててはならない現実で、だから人は移ろうように変わることが出来る。
柔軟な変化は切り捨てるためにあるのではなく、視野を広げるための手段なのだ。
芯さえ持ってさえいれば、どんなに変わろうと自分を誇っていられる。
そして、その誇りが新たな自分を切り開いてくれる。

「ご、ごめんね。俺何も知らないくせに勝手に口を挟んじゃって」

長い廊下を進むとようやく班の最後尾が見えてきた。
舞台の裏は外の熱気に反して静まり返っている。
間に合ったことに安堵すると、彼は手を離した。
春芳は無言で首を振る。
違うと言いたいのに、気持ちが溢れて何を口走るか分からない。

「ここからはショーに出るモデル以外、入れません」

すると近くにいたスタッフに止められて二人は離れた。
顔を見合わせると、寂しさが露骨に表れて、互いに苦笑する。

「み、見ていて……くださいっ……」

最後に自分から近藤の手を握った。

「オレ、ずっと近藤さんのことを想いながら歩きます。一歩一歩踏み締めながら歩きます。……精一杯頑張りますから、オレのことを見ていてください」

その言葉に彼は驚き、間もなく満面の笑みを見せると大きく手を振った。

***

春芳の出番は大盛況のまま終わった。
眩いライトと耳をつんざくような音楽が交差する舞台はひときわ華やかである。
春芳はスポットライトの下、堂々と歩きモデルとしての仕事を全うした。
舞台にあがるどころか、日常の視線さえ気にしていた男が、たくさんのフラッシュの中を悠然と進む。
近藤の言ったとおりだった。
彼のことを考えると怖いものなんてない。
不安や怖れは微塵も感じず、楽しみながら練習以上の成果を出すことが出来た。
見に来ていた家族は大喜びで、母親は息子の立派な姿に涙を流した。
美咲は「まあまあ良かった」と、柄にもなく褒めてくれた。
出番が終わったあとの達成感は言葉に表せないほど大きなもので、こんなにも満ち足りた気持ちは初めてだった。
早くそれを近藤に伝えたくて急いでメイク室に戻るが姿はない。
まだ客席かとホールに向かおうとしていたところで彼の兄と出会った。

「モデル……ですか?」

彼から唐突にモデルの仕事をやらないかと誘われた。
知り合いの雑誌編集者が男性モデルを探しているらしく、会わせたいのだという。
近藤に撮ってもらったカットモデルの時の写真は見ているらしく、乗り気ならすぐにでも撮影に加わらないかと言われた。

「ごめんなさい。オレには無理です」

今回参加したのはモデルになりたいからではない。
誰かの役に立てるのなら、そしてもう一歩前に進めるのならと思っただけだ。
実際にやってみて素敵な仕事だとは思ったけど、それ以上に努力が必要な厳しい世界だと知った。
華やかなのはきっと表面だけである。
春芳は頑張れない。
今回出来たのだって近藤のおかげだ。
彼がずっと傍にいてくれたから、信じて前だけを見ることが出来た。
それでも男は引き下がらず、必死になって説得しようと試みてきた。
しかし、ふらふらと軽い気持ちでやっても後悔しか残らないことは明白だった。
頑なに首を振る。
その様子にようやく彼は諦めてくれた。

「はぁ、巧海にも反対されたんだよ」
「……そ、そうですよ。オレなんかの素人」
「そうじゃない」

苦笑を零すと、困ったように後頭部をかきあげた。
今日も高そうなスーツを着て、いかにもやり手であることを窺わせる風態である。

「口ではああだこうだ言うが、あいつが一番君を認めているんだよ」
「え?」
「ははっ。巧海は昔っから独占欲が強くて頑固だった。好きなものは特に言って聞かなくなるんだよなぁ」
「…………」
「君がモデルになって、遠くに行ってしまうことが耐えられなかったんだよ。たくさんの人に囲まれて手が届かない場所に行ってしまうことが嫌だったんだ。幼稚だろう? まったく、いつまで経っても子供っぽいからしょうがない。結局ムキになって思ってもいないことを言ってしまうんだ。私には丸判りだから報われない」

どういう意味か分からなかった。
さすが兄弟――そろって難しいことを言う。

「これ以上言うと馬に蹴られそうだ」
「は、はぁ」
「とにかくモデルとして素晴らしい力を持っていると思うよ。気が変わったらいつでも連絡して欲しい」
「あの……っ、でも……!」
「さ、早く行きなさい。あいつを探しているんだろう?」

彼は白い歯をこぼすと「巧海はロッカールームにいる」と言い放ち、エントランスへと去っていった。
いまだホールは賑やかで通路には人気がない。
聞こえてくる音楽を耳に、胸元をぎゅっと握り締めるとロッカールームへ向かった。

「はぁ……っ、はぁっ」

パタパタと足音を響かせながら白熱灯の明かりを頼りに駆け抜ける。
見えてきたロッカールームの看板に意を決すると、勢いに任せて扉を開けた。

「……あっ……」

ドアの正面にある窓に腰掛けていた近藤は、いきなり春芳が現れたことに驚いて目を瞠る。
瞬間的に見つめ合うと互いに息を詰めた。
間を埋めるように風鈴が鳴り、思わず下を向く。
(何背けてっ)
咄嗟の行動で意味なんてないのに、長年の癖から顔を背けてしまった。
相手が気を悪くすると判っていて、条件反射のように体が動いてしまう。
一度逸らすと向き合うには大きな勇気が必要で、服の袖を思いっきり掴んだ。
走ってきたせいで荒ぶる呼吸は、激しく肩を揺らし、鼓動を速める。

「……すごく格好良かったよ」

そんな春芳に見かねて、先に声をかけたのは近藤だった。
優しい声にビクリと震え、益々意識して顔をあげられなくなる。

「春芳君にはたくさんの秘められた可能性があるね」

穏やかな声に不安が芽生えるのはなぜか。

「実は……結構前から兄貴にさ、春芳君をモデルにって勧められていたんだ。当然俺も分かっていたよ。君にはモデルの素質がある。人を引きつける魅力を持っているって」
「……っ……」
「でも独り占めしたくて断ってた。散々春芳君のことを悪く言ってさ。子供だろう? あはは、始めはこんな綺麗な人をみんなが知らないなんてもったいないって思っていたのに、俺ってとことん自分勝手だ。そうして君を振り回している」
「あ、あのっ……近藤さん……」

違う、違う――。

「でもショーを見て思った。俺が口を挟むことによって、どんどん春芳君の未来が失われていく。もっと輝ける世界が――」
「ち、違います!」

たまらず春芳は口を挟んだ。
(そんなこと言わないで)
近藤の口から突き放すようなことを訊きたくなかった。
違う。
彼の言っていることは春芳の願いと違う。
望んでいるのはそんなことじゃないと強く思うのに、上手く言葉が出てこない。
そのじれったさに唇を噛み締めて顔を歪めた。
窓からは生温い風と共に熱気が入ってくる。
ゴテゴテした衣装は風通しが悪くて、背中に汗が流れた。

「い、いっぱい話したいことがあります。たくさん伝えたいことがあります」
「川中く……?」
「近藤さんに聞いてほしいことがいっぱいあるんです」

話すのは苦手で、声がどもる。
扉を掴む手が震えて格好悪かった。
情けない姿に泣きたくなるが、もう逃げないと心に固く誓い押し留める。
春芳の様子にいつもとの違いを見出だし、近藤は深く頷いた。
促されて春芳も意を決する。

「初めて会った時……近藤さんが声をかけてくれなければ、いまだに自分の殻に閉じこもってウジウジしていました。あの時、言い合いになっても「待ってる」って言ってくれて、……オレ、あんな風に言われたのは初めてで……すごく嬉しかった」
「俺の方こそあの時は無神経で」
「違います。誰にも壊せなかった壁を、近藤さんは壊してくれた。自分と向き合うチャンスをくれたんです。おかげでオレは頑張ろうと思えた。何かしたいって思えた。近藤さんが髪を切ってくれて、何度も褒めてくれたから今までのコンプレックスに負けずに済んだ」

誰にも見向きもされなかった自分に手を差し伸べてくれた。
唯一笑わず馬鹿にせず対等に扱ってくれた。
(オレの情けない過去を一晩中聞いてくれた)
だから神様だと思った。
暗く淀んだ世界に、こんな素晴らしい人がいたのかと感動した。
近藤さんの傍にいれば、いつだって明るいところにいられた。
暗くて狭い場所に閉じこもっていた自分には眩しいような世界を教えてくれた。
そして気付いたんだ。

「ほ、他の誰に褒められても嬉しくない……っ、ちやほやされたって……輝かしい舞台の上だって楽しくない……!」

本心を言うのは怖いことだ。
相手は腕の良い美容師、きっと春芳が知らないだけでたくさんの人に愛されている。

「近藤さんだから……っ、こ、近藤さんさえ見ていてくれたらっ……褒めてくれたら、オレは嬉しいんです。あなたの言葉だからっオレは……!」

近藤にとって春芳は大勢の中のひとりかもしれない。
だけど春芳にとってはたったひとりの大切な人だ。
そう伝えたいのに、上手く言葉が出てこなくて、もどかしさに歯軋りする。
いつだって感情に言葉がついてこなくて悔しかった。
口ごもって誤解されてしまう。
それに慣れるとどうでも良くなって、想いを表そうとする気力が失せた。
でもそうすると益々誤解されて、見放されて、ひとりぼっちになった。
(嫌だ。近藤さんには誤解されたくない)
どうしたら伝わる?
拙い気持ちだけど、これだけの想いをどうすれば伝えられるだろう。

「す、す、すっ、すきっ……好き! ……っ、好きなんです……ずっとずっと、近藤さんが好きだったんですっ……」
「……っ……」
「近藤さんの傍にいたい!モデルなんかにならなくても、近藤さんと一緒にいれば、いつだって輝ける未来を作れるからっ……一緒にっ……一緒に……」

言葉が続かなかった。
恥ずかしくて死にそうだった。
下を向きっぱなしで、近藤の目どころか顔さえ見られていない。
(ここで勇気を出さなくてどうするんだ)
心臓は爆発寸前で、体中火照ったように熱い。
もはや風鈴の音も、ホールの歓声も耳に入ってこなかった。

「オレは……近藤さんが、好きですっ、好きなんです!」

呼吸を整えると、決意を新たに顔をあげた。
薄暗いロッカールームは電気さえついておらず、外から射し込むだけの光に頼っている。

「春芳君……」

その中で見えたのは今まで以上に優しく温かな眼差しで、思わず息を止めた。
見つめるだけで心に燻っていた不安や怖れが消されていく。
見つめるだけで胸の奥が温かくなって満たされていく。

「やっと俺を見てくれた」

彼はゆっくりと春芳に歩み寄ると、その手をとった。
ぐいっと引っ張り室内に入ると、扉を閉める。
「あっ」と思った時には遅く、抱き締められた。
春芳の体は甘い香りを漂わせた胸元に収まる。

「俺も春芳君が好きだよ。いつも一生懸命でまっすぐで、俺の方こそ励まされてた。君といると頑張ろうって心から思えるんだ」

抱き締められた腕は強くて痛いくらいだった。
その分彼の深い想いが伝わって胸がいっぱいになる。

「世界中の人間にこんな素敵な子がいるって見せびらかしたい。でも、そんなことをしたら世界中が君に夢中になってしまうから誰にも見せたくない」
「近藤さ……っ、そんなっ」
「本当だよ。この際だから言うけど髪を切って少し後悔したんだ。長いままでいれば、誰にも知られずに済んだかもしれない。俺だけの春芳君でいてくれたかもしれない。――なんて、幼稚なことを考えていたんだ」
「……あっ……」
「独り占めしたいんだよ。だって好きな人なんだ。俺だけを見ていて欲しいなんて思ったりするわけよ。軽そうに見えて本当は独占欲が強いって気持ち悪いだろ?」

近藤はくすくす笑って少し体を離した。
顔を覗き込まれて耳まで赤くするも、必死な思いで春芳は首を振る。

「だ、……だったら、近藤さんだけのオレでいます。オレもすごく嬉しいから」

好きな人が自分も好きなんて信じられないことだ。
それだけでくすぐったい気持ちが広がり、おかしくないのに笑いたくなる。
無意識に頬が緩んで笑みを見せた。
笑うことが苦手だった少年は、いつしか表情を緩めることを覚え、自然に笑うことが出来るようになっていた。
ぎこちなくない。
強張ってもいない。
心の奥では火が灯ったように温かくて、勝手に顔が綻んでしまうのだ。
その表情に近藤は頬を染めると、顔をくしゃくしゃにする。
春芳の変化を間近で見ていたからこそ、無防備な微笑みには勝てない。

「ああもうっ。なんでこんなに可愛いのかなぁ」
「っ……あっ」
「出会った時からメロメロにされっぱなしなんだけど!」
「メロメロって」

それはこっちの台詞だ。
眼前に迫ったのは整った顔立ちで、見つめられるだけでドキドキする。
顔中口付けられて、いたるところを触られていっぱいいっぱいだ。

「こ、ここっ……ん、ロッカールームで……っ、誰かきちゃ……」

まだショーは続くとはいえ、いつ人が入ってくるかも分からない。
胸元に手を置いて制止を促したが、額にキスをした彼は首を振った。

「鍵、閉めたから」
「え?」
「さっき鍵も一緒に閉めた。策士でごめん……一応聞くけど、意味……分かってる?」

甘ったるく問われて、胸が詰まった。
相変わらずのキラキラオーラ満載で、眩暈を起こしそうな色気を漂わせている。

「そ、それは……あのっ……」

どう答えていいか当惑して言葉を濁した。
そんな春芳を愛しく思いながら腰を抱き寄せ、肩口に顔を埋めて目を細める。

「その服可愛いね。似合ってる」

耳元で聞こえた声に、春芳の心臓は一段と激しく鳴った。
いまだに彼が自分を好きなのが信じられない。
同じ気持ちであることが実感できない。
窓の外は賑やかで、講堂だってショーが終われば人で溢れる。
ロッカールームにも人がやってくるかもしれない。
なのに、離れられなくて、そっと身を預けてみた。
些細な意思表示だとしても春芳にとっては大きな勇気である。

「ありがとう……ございます」

恐る恐る手を背中に回すと胸元にうずくまった。
戸惑いながらぎこちなく抱擁を交わす。

「もう、本当に好き。大好き」
「お、オレも……好きです」

改めて確認し合うのは照れくさくて互いに苦笑を漏らした。
そっと彼の手が伸びてくると、頬を包み込み、輪郭のラインをなぞるように移動する。
顎までやってきたところで固定するように持ち上げられた。
鼓動の音がうるさい。
何をされるのか分かって耳まで赤くなったが、不思議と嫌じゃなかった。

「今日までよく頑張りました」

囁くように呟くと春芳の唇に吐息がかかった。
吸い込まれるように顔が近づくと、互いにゆっくり目を閉じる。

「ん……っ……」

唇には感じたことのないほど柔らかな感触がした。
とろけるような口付けに、心臓が飛び跳ねる。
だけどこれで終わりじゃない。

「んぅ……、すき……好きだよ」

キスに負けないくらいの甘い睦言が耳を犯して、思考を麻痺させた。
離れたはずの唇が再び落とされると、押し付けられる。
一度してしまえば互いに貪欲になって、溢れる情意のままに唇を重ねた。
角度を変えてキスするたびに「好き」だと呟き合って満足に浸る。
そのうちキスをしているのか喋っているのかも曖昧になって、なし崩しに床へ倒れこんだ。
迫る綺麗な顔は、まるで作り物のように美しくて鼓動は速まるばかりである。
何もかも初めてで困惑する春芳だが、近藤は容赦しなかった。

「ごめんね。俺、限界」

口調は優しいのに、顔は髪を切っている時以上に真剣で、その浅ましさを知る。
彼は決して春芳を離さなかった。
その執拗さに独占欲の強さを垣間見た気がして嬉しくなる。
好きな人に求められることは幸せなことだ。

「謝らないでください。オレも男です。当然、同じ気持ちです」

もう他のことは気にならない。
春芳の五感は目の前にいる近藤だけで手いっぱいで、感じている余裕はないのだ。
(大丈夫。怖くない)
目を閉じれば暗く狭い闇の中でうずくまる自分が見える。
人を怖れ世界を憎んだ瞳には、何も映っていなかった。
ひとりでいることが楽なのだと、幸せなのだと、信じて止まない背中は孤独で寂しそうに見える。
小さい肩を自ら抱き寄せじっとしていた。
(大丈夫。世界はいつでも君が変えられるんだよ)
人の温かさを知らないことが、こんなに悲しいとは思わなかった。
全てが味方ではないが、敵でもない。
だって触れた体は自分と同じように温かい。
近藤と出会って、彼に触れてもらってようやくそのことに気付いた。
抱き合えばきっともっと温かくて幸せになれる。
それが好きな人ならなおさら。
(だから怖がらなくていいよ)
うずくまった自分を包み込むように抱き締めると、ゆっくり目を開けた。

「どうして人は触れ合うことを望むのか分かった気がします」

それはいつかの近藤への答えで、春芳は深く澄んだ瞳で見上げると、彼に向かって手を伸ばした。
自分がされていたように髪の毛に触れて頭を撫でる。
その様子を優しく見守っていた近藤は、慈しむように微笑み、春芳の体に覆い被さった。
蜜のように甘く蕩けるような温もりに、息をひそめて手のひらを絡める。
誰にも見つからないように、密やかな想いの証を体に刻み込んだ。
まどろみの熱を感じながら、二人は二人だけの柔らかな素肌の海に沈む。

そして新世界へ――。

END