3

「ほう。銭湯には銭湯のルールがあるのか」
「そうだぞ。新入りは気をつけなきゃならんね」
「ふむ、中々奥深い」

全身ずぶ濡れの柳小路は顎に手を置いて神妙に頷く。
真面目な表情のわりに豪快な格好はアンバランスで思わず吹き出しそうになった。
ギャップが酷すぎて柳小路を知っている人間に話しても信じてはもらえないだろう。

「失礼をした」

すると彼は親父に向かって深々と頭を下げた。
律儀にも他に浸かっていた客にまでひとりずつ謝っている。
全員に詫びを済ませると、怒られた悪戯っ子のような顔で戻ってきた。
肩をすくませてバツの悪そうな表情は、いつもより子供っぽくて今度こそ笑いをこらえられない。

「ぷっ、ははっ。おじさまったら」

思わず吹き出した馨の笑い声は浴場に木霊した。
てっきりまた呆れられると思っていたのか、柳小路はその反応に瞳をパチパチさせる。
しばらく続く笑いにつられて、自らも口を緩ませた。

「いや、はは……。参ったな」
「ははっ、もう面白すぎです」
「そうだな、ははっ」

柳小路があまりに柔らかく微笑むから馨の心も満たされる。
周囲もその雰囲気に和んだのか、それぞれ笑っていた。
(銭湯がこんなに楽しいなんて変だ)
隣に並んだ柳小路を見上げて、再び頬を緩ませる。
二人はこそばゆい気持ちを抱えながらのんびりと湯に浸かるのだった。

その後、風呂上りにコーヒー牛乳を飲んで帰った。
火照った体に夜風が心地好く過ぎていく。
点々と置かれた街灯は鈍い光を放ち、帰り道を照らしてくれた。
振り返れば二つ並んだ影法師が長く伸びている。

「……本当に、君といると退屈しない」

ふと柳小路が口をついた。
薄暗い道では時折車の往来がある。
彼はさりげなく道路側を歩くと目を細めて馨の方を向く。

「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。次何をするのか、何が起こるか分からないからワクワクする。子供の頃に入った迷路を思い出すんだ」

まだ湿っている髪をかきあげると、嫣然と笑った。
その横顔に小さな胸が鼓動を速める。
馨は気付かないふりをして顔を背けた。

「それは僕の方ですよ。出会った時からおじさまは変な人で、いつも冷や冷やします。今度は何を言い出すんだろうって」
「ははっ。中々手厳しいご意見だ」
「事実です」

いつまで経っても可愛げないことしか言えない自分に嫌悪する。
柳小路は優しいから今までそんな態度で怒られたことはない。
だから余計に幼稚さが浮き彫りになって嫌な気持ちになった。
心が頑ななまま気を許そうとしない。
原因は分かっていた。

「…………」

会話は途切れたまま継穂を失う。
穏やかな夜は陰々と闇を残して通り過ぎていく。
二人分のサンダルが道路に擦れてカサカサと独特の足音を響かせた。
さすがの柳小路も怒ったかと不安げに見上げる。
すると彼は笑いをこらえるようにこちらを見ていた。
目が合うと気まずくて口を尖らせる。
いつものように険しい顔をしたが咄嗟に言葉は出なかった。

「さぁ、レディ。お手をどうぞ」

柳小路は通せん坊をするように前に出ると立ち止まる。
パーティーでのエスコートを真似て腕を寄せた。
爺くさい作務衣のくせに仕草は格好良くて腹が立つ。

「今日はレディじゃありません」

ツンとした態度のまま横をすぎた。
そうして止まることなく歩くが、隣はいつまで経ってもやってこない。
少し歩いたところで振り返ると、彼はその場から動こうとしなかった。
変わらず腕を差し出すように寄せて待っている。
ニコニコと楽しそうなのが余計に不快だった。

「はぁ」

馨はため息を吐くと、柳小路の前まで戻り、その腕に手をかける。

「行きましょう、レディ。我が城にご案内します」
「おじさまって本当にどうしようもない人ですね」

人気のない夜道で男二人して何をやっているのだか。
冷静に考えると馬鹿みたいで呆れるが、相手は楽しそうで文句も言えなくなる。

「見てごらんなさい。あんなにも星は美しい」
「はぁ……そうでございますね」
「なぜあれほどに月や星は輝いているのだと思いますか?」
「なぜって、知りませんよ。そんなの」

柳小路はノリノリで、劇めいた台詞を囁く。

「それはあなたを美しく照らすため。……あなたのために毎夜星は輝き続けるのです」
「ぶっ……」

さすがの馨もついていけなくて、思わず吹き出した。
気管に入ったのか苦しそうに咳込むと恨めしそうに見上げる。

「急にやめて下さい。気持ち悪い」

ようやく治まると、ゼイゼイ荒い息を鎮めた。
しかし柳小路は首を振ると、腕に組んでいた手を取り、甲に唇を落とす。
一連の動作があまりに洗練されていて止める間もなかった。
彼と手だけ切り取れば映画のワンシーンのように映る。

「本当だよ。君の輝きには全ての色が失われる」
「……っ……」
「私の口は思っていないことを言えるほど器用には出来ていないんでね」

軽く笑ったが、反応は出来なかった。
先ほどより速まった鼓動を抑えるのに必死だったからだ。
でなければこの音に気付かれてしまう。

「お、城が見えてきた」

そんなこと知らず、柳小路は上機嫌に笑った。
見れば築何十年のアパートが見えてくる。
到底城には見えないのに、否定したくなくて黙って頷いた。
今なら本当に城に見えるかもしれない。
(まさかそんなことありえない)
馨は感情を打ち消すように首を振った。
雰囲気に呑まれているだけなのだと思い直す。
気を許すわけにはいかない。
馨は身を持って知っていた。
幸せは長く続かない。
平穏は長く続かない。
そして、自分はいつまた独りぼっちの環境に戻ってもおかしくない立場なのだと。

「馨、またいつか銭湯に行こう」

だがいつまで経っても鼓動の速さは変わらなかった。

***

数日後、柳小路は仕事帰りに行きつけのバーに寄っていた。
新宿三丁目のゴールデン街の隅に馴染みの飲み屋がある。
爛々としたネオン街の二丁目に比べて、しみったれた明かりの灯る路地。
昭和初期に開けた店で、外観内装共に年季が入っている。
何も知らなければ陰気なバーともとられかねないが、そういった気取らなさが気に入っていた。
隠遁者に近い彼には、新宿の洒落たバーより落ち着く。
何よりこの辺は昔から作家が訪れては談議に花を咲かせていたという。
時代は違えど同じ空気に触れている高揚感が好きだった。

「お久しぶりですね」

カウンターに座るとマスターに声をかけられた。
「いつもの」と、頼んだ柳小路はニコリと頷いた。

「ここ最近少し忙しくて。そういえばマスターの作るだし巻き卵って他の店と違う気がするんだが、何が入っているんだ」
「急にどうしたんです?」
「あ、いや、すまない。少し料理に興味を持ってな。だが失礼した。それぞれ工夫があって当然なのに、浅はかな質問をした」

出されたつまみと日本酒を煽ると苦笑いを零す。
対してマスターは首を振り、
「私はここに来る前、長らく和食店に勤めていまして、そこの料理長がだし巻き卵にうるさかったんです」
「ほう」
「レシピだけでよろしければ教えましょうか」
「え、いいのか」

驚く柳小路を尻目にメモ帳を取り出すと、すらすらと書いていった。

「まさか柳小路様から料理の話を訊かれるとは思いませんで、特別です」

指を口許に寄せると、悪戯っ子のように顔をくしゃくしゃにした。
メモを受け取ると改めて礼を言う。

「ですが、だし巻き卵とは焼き方も重要なもの。このレシピで作ったからといって美味しいものは出来ませんからね」
「ああ、分かっている」

するとその時、バーのドアが開いた。
扉一枚隔てた闇夜から、紫のアフロヘアーが入ってくる。
相変わらず目立つ男だ。
小さなドアに屈んで入ってきた和久井は、カウンターに柳小路の姿を見つけて甲高い声をあげる。
隣に座ると彼も「いつもの」と注文した。
前回ホテルで会った時以来の再会で、話は弾む。
彼も少しは落ち着いたらしく、同じく久しぶりの来店だと言っていた。
店内は静かにジャズがかかっていて、他に客がいないせいかいつもより大きく聞こえる。
今日に限って絶滅寸前の弾き語りは顔を見せなかった。

「あの子可愛かったわね」
「そうだろう」

話題は馨の話に移る。

「そうだろうって、やぁね。振られたばかりの独り身には堪えるわぁ」
「和久井君、男いたのか」
「東京に戻ってきてから見つけたんだけど、ダメね。長く続かないの。忙しいってのは大きな理由なんだけど、それを言い訳にしているような気もしてね」

ウイスキーのグラスを転がすと、カラカラと丸い氷が回った。
愁いを帯びた横顔は、派手な化粧でも誤魔化せないほど憂鬱そうにしている。
会話が止まるとピアノの跳ねる音が響いた。
マスターは黙々とグラスを拭き、手元に集中している。

「やだあ。暗いオカマなんて、存在価値ゼロ!」

彼は明るい声で笑い飛ばすと、ウイスキーを一気に飲み干した。
マスターにおかわりを頼む。
よほど参っているのか。
なぜ多忙な時期に来店したのか分かってしまって、柳小路も酒を煽った。

「君は何をそんなに怯えているんだ」
「えっ」

チラッと横目で見ると、目を瞠ったように和久井の動きが止まる。
しばらくして口角をあげると目を細めた。
血のように赤いルージュが痛みを連想させる。

「そうね。しいていうなら世界かしら。どうしたってアタシは異物だもの。だから豪快に笑って、派手な格好をして、その勢いで生きようとしているのよ」
「……私は昔からの友人ではないから、君の恋愛遍歴は知らない。でも本当は振られているんじゃなくて、振っているんじゃないのか」
「あぁん、そんな良いオンナに見える? 嬉しいわぁ」
「あくまで推測だけどね。君のことは君にしか分からないよ。でも和久井君はひとりになるのが恐くて、ひとりになろうとしているような気がする」
「やだ、うふふ。なにそれ」
「さぁ」

和久井は出てきたウイスキーに口を付けると、グラスにまでルージュの色が移った。
派手なネイルに反して、手の筋を見れば立派な男で、体のどこも工事はしていない。
柳小路も男が好きだが、また違った心を持っている和久井の心情は推し量れない。
女装家ではないが、自分をオンナと呼ぶに、複雑な性を持っているのだろう。

「相変わらず鋭くて困るわ。……でも好きよ、そういうオトコ」
「だが、私とセックスは出来ないだろう」
「んふふ、ごめんなさいねぇ。アタシ、バカな人じゃないとダメなの」
「…………」
「見透かされたら、……きっと生きていけないもの」

カラーコンタクトを入れているのか、真っ青な瞳が揺れている。
まるで空を閉じ込めたような鮮やかさは眼に痛いくらいだった。
カウンターに肘をついて見つめ合うと、どちらともなく笑みが零れる。
白熱灯の柔らかい光が頭上に降り注ぎ、影を落としていた。

「安心したわ」
「え?」
「馨ちゃんのこと」
「…………」
「あの子の瞳の色がアタシに似てたから、気になっていたの」
「それで名刺を?」
「ええ。でも杞憂だったわ。柳小路さんがいれば大丈夫よね」

和久井はその一杯を飲んで店を出て行った。
かける言葉が見つからなくて「また」とだけ応えた。
それに対して振り返ると、いつものように笑い手を振る。
繊細な彼は、再び現実と向き合うために、鈍感であるよう演じなければならない。
古びた一枚のドアは異次元に通じる扉だ。
(少し飲みすぎてしまったかな)
軽く一杯飲んで帰ろうと思ったのに、つい長居をしてしまった。
会計を済ませてドアに手をかける。
入ってきた時より重く感じるのは酔いのせいだけではないはずだ。

***

自宅に着くと酔いが回っていたのか、覚束ない足取りで玄関にへたりこんだ。
開ければすぐ居間で、勉強していた馨が驚いた声をあげる。

「どうしたんですか!」

飲みに行くことは連絡済だった。
しかしこんな姿を見せたことがないせいか、慌てて水を持ってくる。
受け取って一気に飲み干すと焼けた喉に潤いが戻った。
帰るまでは気張っていたせいか、さほど酔ったと感じていなかったが、思ったより状態は酷い。
意識はあるものの、脳が痺れて上手く思考が働いてくれない。

「大丈夫、ですか……?」
「少し飲みすぎてしまったようだ。大丈夫」
「でも」

馨が恐る恐る顔を覗き込んできた。
やっとの思いで靴を脱いだ柳小路の肩を担いで、布団の敷かれた和室に運ぼうとする。
しかし思った以上の重さに上がらず、眉を顰めた。

「馨……」

柳小路は奮闘する彼を見て、そっと手を伸ばす。
柔らかい産毛の感触と、指先に伝わる肌の温度。
頬を包み込むと、自分の方に向けた。

「お、じさま?」
「顔を見せてくれないか」

手のひらに収まってしまうほど小さな顔に、輝く大きな瞳が揺れている。
柳小路家は代々黒目が大きく、闇より深い色をしていた。
見つめれば瞳の中に酔った自分の顔が映る。
和久井の言う色を見てみたかった。
澄んだ瞳には吸い込まれそうな強さがあり、心さえ見透かす清さがあった。
困惑の眼差しに眉毛が下がり、どうしたら良いのかと泳いでいる。
膨らんだ愛しさは、酔いに負ければ抑えられそうになかった。
心臓の奥深くが緊張して固まる。
それはいくつになっても初々しい感情の塊だ。
何度経験してもコントロール出来ないから、いつも人は同じ苦悩を抱える。
ここに引っ越してきてから安易に手を出すまいと誓ったのに、脆くも欲望に負けてしまいそうだ。
(こんな状態で抱いても後悔しか残らないだろう)
寸前に過ぎった理性は、本能を優しく隠して正しい道を示す。

「……酔い醒ましに風呂に入る。君はもう寝なさい」

柳小路は体を離すと顔を背けた。
頭は冴えてしまったのに、体は酒が残ってだるく、気持ち悪い。
テレビの中ではわざとらしい笑い声が聞こえて滑稽に映った。
テーブルの上のリモコンで消せば途端に大人しくなる。
そうして風呂場へ逃げようとしたら、腕を掴まれた。
驚いて振り返ると、馨が柳小路を見つめている。

「今の、なんですか?」
「別に何もない。酔っ払っているだけだ」

やましさに気付かれたくなくて、目を逸らしたまま答える。

「何もなくて……おじさまはあんな優しく触れることが出来るんですか」

声が僅かに滲んだ。
振り向くと顔を真っ赤にした馨と視線がぶつかり瞠目する。

「何をしていたんですか。誰と飲んでいたんですか……なんて、今までなら気にならなかったことが気になって……宿題も手につかなかったんですっ……」
「何を言っているんだ? 私はひとりで――」
「分かっています! ……分かっているんです。でも、おじさまはこの家に来てから僕に触れなくなった。同じ部屋で眠っているのに、そんな素振りひとつ見せなくなった!」
「え……」
「か、勘違いしないで下さい! 僕は別に、あなたが好きなわけじゃないんです。別に……あなたが、どこで、誰と……何をしてようと……べ、別に……」

馨の声は徐々に小さくなって聞き取れなくなった。
掴んだ手が震えて可哀想なくらい意識している。
「別に」と繰り返しながら、憤懣をぶつける様は、あまりに幼稚で愛らしい。
湧きあがる情意に今度こそ歯止めは効かず、その場で押し倒してしまった。

「……っ……」

馨は驚いたように目を白黒させる。
風呂上りなのか、微かに石鹸の甘い香りがした。
男を酔わせる魅惑の香りだ。
同じ石鹸を使っているのに、そそられて首筋に顔を埋める。

「お、おじさまっ……ちょっと、んぅ……っ」

肌に吸い付くとより想いが溢れた。
体中どこもかしこも自分のものにしてしまいたくて、執着にも似た浅ましさが顔を出す。
冷静に抑えたはずなのに、馨が気にしてくれていると知っただけでこのザマだ。
浮かれている。
僅かな希望と可能性を感じて、いい歳した男が舞い上がっている。
情けないほど惹かれているから、相手の一挙一動に喜んだり悲しんだり出来るのだ。

「あぁ、んぅ……っ、おじさまっ、おじさまぁ……っ、はぁっ」

滑らかな肌を唇で這い、ズボンの中に手を突っ込む。
馨は恥ずかしげに拒否をしたが、性器は熱くなっていた。
顔をあげるとはだけた襟元のいやらしさに息を呑み、潤んだ瞳に甘い疼きを覚える。

「はぁ、はぁ……おじさま……」

脱ぎかけの衣服は裸より想像力をかきたて卑猥に映る。
馨を抱く時、いつもめちゃくちゃに壊してしまいたい衝動と、極上の優しさで包み込みたい欲求の板ばさみになる。
相反するのにどちらも紛うことなき本心だから困った。

「……かお、る……」

ゆえに触れることさえ恐い。

「…………湯冷めする前に寝なさい」
「え?」
「私も風呂に入って寝るから」

柳小路はあと少しの迷いを消すことが出来ずに、手を離した。
戸惑う馨になるべく優しく笑いかけ風呂へ向かう。
彼に掴まれたスーツはよれよれになっていた。
その皺を見ながら脱衣所のドアを背に座り込む。
(愛しすぎると据え膳でも食えなくなるのか)
本当はいますぐ抱きたい。
いっそ囲って自分だけのものにしてしまいたい。
でもそれでは前の屋敷にいた時と同じだ。
(流されているだけかもしれない。彼の信用を再び落とすわけにはいかない)
柳小路もここ最近の馨の変化には気付いていた。
前よりずっと身近に彼を感じる。
でも愛情なんて名がつくものは数限りなくあるのだ。
必ずしも二人が同じ愛で一致するとは限らない。
まだ幼い馨が流されてあんな風に言ってもおかしくない話だ。
だからこそ慎重にならねばならない。

 

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