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「困ったな。兄さんにも同じようなことを言われた。仲良くしていたつもりはないんですけどね」
「ふふ。みんな同じことを思っているのよ」
「だから厄介だ。私には好きだった記憶なんてなかったし、むしろ当時は馬鹿にしていた。彼の青臭さが鼻について、愚かだと思っていた。家を出たあと見守っていたのだって、面白がっていただけなんです。悪趣味でしょう?」

通夜に行ったのだって、不幸な男の結末を見たかっただけだ。
軽い気持ちで出かけただけだった。
なのに、人は時として予想外の行動をとる。
(――崇が家を飛び出したように)
柳小路がその息子に手を差し伸べた。

「本当のところ、どうして馨を引き取ったのか分かりません」
「…………」
「ただ後ろ姿を見た時、頭が真っ白になって、気付いたらハンカチを差し出して、迎えに来たと言っていたんです」
「それは素晴らしいことよ」
「ええ、本当に。素晴らしいことです。おかげで崇のことを、本当はどう思っていたのか気付いた。馨との生活が、その記憶を呼び覚ましてくれたんです」
「どう思っていたの?」
「羨ましかったんですよ。私はずっと彼を羨んでいた。やっかみの方が強くなって馬鹿にしたのは未熟だからです。彼は私にない自由を持っていた。それはいつまでも家柄に縛られる自分にはない強さだった」

柳小路は家を捨てられなかった。
そうするのが正しいと賢い気になって、本質を見ていなかった。
対するに家を捨てた弟はなんでも持っていた。
夢、希望、信念、自由、友人、家族……。
全て自らの手で掴み、胸を張って見せられるものだ。
(私には何もない)
彼は死ぬ最期の時まで幸せだったに違いない。
その幸せは、一生柳小路が手に入れられないものだった。

「馨と生活し始めて、ささやかな幸せに気付き、人を見つめることが出来ました。大切なのは枠組みではなく、その奥にある淡いものだと知りました。全てまだ幼い子に教えられたことです」
「そう……」
「生まれて初めて幸せに触れることが出来た日々でした」

あまりに脆く、繊細で不安定なもの。
(形だけを見て、本質を見失っていたのは私だった)
これでは馨に諭すことは出来ない、その資格はない。
柳小路は奥歯を噛み締めて溢れる情意をやり過ごした。
うなだれた肩は僅かに震えてこらえる。
短いながら楽しかった日々は走馬灯のように消えた。

「……全ては過去のこと。もう終わったことですね」

ぼそりと呟くと、顔をあげてコーヒーを飲み干した。

「ごちそうさま」

力なく笑い、キッチンで濯ぐ。
父親は相変わらず静かで、ここにいても仕方がないと帰る支度をする。

「ちょっと待って」

それを母親が止めた。
彼女は苦味を含んだように笑う。

「過去のことじゃない」
「え?」
「父さんと違ってあなたは動ける。なら、過去のことにするのは早いわ」

何を言い出すのかと思った。
終わったことを蒸し返せば、再び兄弟間で争いが起こるかもしれない。
馨を不安にさせるかもしれない。

「父さんのこと、今なら少し分かるの」
「……母さん……?」
「きっとずっと許したかった、謝りたかったのよ。だって大切な息子だもの。簡単に縁を切ったり出来るわけない。……ただ、肝心の許し方を忘れてしまっただけで……」
「忘れた? 親父は頑固で強情で意志を曲げなかっただけではないんですか」
「頑固なのはあなたも知ってのとおりだわ。でも思うの。年を取るにつれ、開いてしまった距離に、どう声をかけていいのか分からなかったんじゃないかって。その償いが、あの遺言書だったんじゃないかって」
「そんな自分勝手な!」
「本当ね。でもあなたならまだ自分勝手にならない。生きているなら、動けるなら後悔に気付いて向き合うことが出来る」

柳小路は首を振った。

「私は馨に愛想を尽かされました。もう彼は戻ってきません」
「分からないじゃない」
「分からないのは母さんの方です! 大体、崇も馨も私に心を開いてなんかいませんでした。懐かなくて悪態ばかりついて……」

頭がぐちゃぐちゃになる。
心の奥底で希望が芽生えそうになって、拒絶する。
再び馨に拒否されることが恐かった。
あの時の眼を思い出すと未だに胸が痛む。

「分かっていないのはあなたの方ね」
「……っ……」
「馨君のことは見ていないから分からない。でも崇は違う。心を開いていたから、あなたには好き勝手言えた。口が悪くて文句を言うのも甘えていたからなのよ。甘えられる存在であったから、あなたには気を許したの」
「母さ……」

そんなはずないと否定する自分と、そうであってほしいと願う自分がいる。
その時点で答えは出ているものだ。
思い込みを取っ払えば曇りなき眼が開かれ、渺茫まで見渡すことが出来る。
もはやどんなに己を偽ろうと無駄だった。
引越しをした時だってそうだ。
心のままに行動を起こせば、高い壁は越えられる。
そう信じたから短いながら馨との幸せな日々を送れたのだ。
(希望的観測でいいじゃないか。どうせ人の心は見えないんだ)
まだ望みはある。
紳士だって時に余裕がなくたっていいだろう。
我がままに振舞ったって悪くないだろう。
納得出来ないまま澄まし顔で笑っていたって誰も救ってはくれない。
まずは自分を信じ貫くことが必要なのだ。
(あの日の崇のように)

「いつまで経っても手のかかる息子で申し訳ありません」

柳小路は苦笑して頭を下げた。
すると母親は目を細めて、
「親にとってはいくつになっても子供なのよ」
と、笑った。

翌日、柳小路は部屋を綺麗に片付けると、事務所に出社した。
気に入っているスーツに鞄、靴、時計をして、きっちり仕事をこなした。
ごく当たり前の日常だが、今はひとつひとつが儀式のように感じられた。
(馨を迎えに行くんだ)
もう二度と顔も見たくないと、拒絶されるかもしれない。
何を今さらと、嫌忌な眼で見られるかもしれない。
だが相手の真意を忖度したところで意味はない。
柳小路には揺るがない気持ちがあった。
それは日常の延長線上にあった。
だから彼はいつもと変わらぬ日常をこなすことにしたのだ。
定時を過ぎ、翻訳の仕事が一段落すると、事務所を出る。
エレベーターに乗って賑やかな一階のエントランスに着くと、ふと紫色の頭が見えた。
鮮やかな色に見間違いはなく、目を凝らすが幻覚でもない。

「柳小路さん――!」

入り口横のソファに座っているのは紛れもなく和久井だった。
人で溢れたエントランスに奇抜な服が目立ち浮いている。
怪訝そうに振り返るサラリーマンの視線を気にもせず柳小路に手を振った。
その無邪気さに思わず口もとが綻ぶ。

「珍しいね。このビルに用事でも?」
「やあね、違うわよ。んもー、どんな顔をしているかと思えば相変わらず飄々しちゃって」

彼は寄ってきた柳小路の脇腹に肘を突くと「憎らしい人」と笑った。

「あなたを迎えに来たのよ」
「え? 君が?」
「さぁ行きましょう」
「ちょ、ちょっと! どういうことだ? 和久井君っ、私はこれから――」

強引に手を引っ張る彼に狼狽して声を荒げた。
吹き抜け天井のエントランスに柳小路の声が響き渡る。
周囲のサラリーマンは異質な二人に道を開け、左右に散った。
振り返った和久井はチャーミングな仕草でウインクする。

「馨君、今、うちに来てるわ」

目に飛び込んできたのは深紅のルージュで、その言葉に眩暈がした。

***

和久井の自宅は都心のタワーマンションで、りんかい地区にあるせいか、海が蒼茫まで見渡せた。
事務所近くの駐車場に止めてあった車に乗り、夕方の賑やかな繁華街を突っ切る。
道中これまでの経緯を仔細に教えてくれた。
馨が彼の家に来たのは今朝方のことで、馨の祖母――つまり、柳小路の母親も一緒だったらしい。

「まっさかこんなところで柳小路さんのお母様にお会い出来るなんて、やっぱり早起きは三文の徳よね」

信号に差し掛かってブレーキを踏むと振り向く。
その後、少し考えたいという馨を預かり、和久井は一日中話し相手をしていたというのだ。

「ちゃんと学校にはお休みしますって電話したから安心してちょうだい」
「ありがとう。だが、それより君は忙しいはずだ。一日中家にいるなんて、仕事は平気なのか」

青になると再び車が動き出した。
荒っぽい運転の和久井の横顔を助手席から見つめる。
ショッキングピンクのスポーツカーは彼らしい車だった。
ハンドルを握ると人格が変わるというが、運転する和久井は男より男らしい運転だった。
前にノロノロした車がいれば怒号が飛ぶ。
普段どこに隠しているか分からないほど、ドスの効いた声だった。

「大丈夫。一日でパァになるくらいなら世界なんて狙えないわ」
「しかし……」
「律儀な人ね」

渋い顔で唸る柳小路に、見かねた和久井はひと際明るい声で言った。

「じゃあ柳小路さんが体で払ってくれるのはどう? 一日……ううん、一晩で構わないわ」
「和久井君」

見ればわざとらしい嬌態で誘っている。
運転しながらくねくねと揺らす腰に、思わず吹き出しそうになった。

「君は――」

そう呟いてから首を振ると深く息を吐く。

「――すまない。私はもう馨以外抱かないって決めたんだ」

柳小路は嫣然と微笑み、窓の外に視線をやった。
この歳になって今さら訪れた純情に、今度こそ腹をゆすって哄笑しそうだった。
外はいつの間にか陽が沈み、群青色の空が広がっていた。

和久井から鍵をもらって駐車場で分かれるとエレベーターに乗った。
最上階丸々彼の家で、エレベーターを降りるとすぐ玄関がある。
借りた鍵を開けると、白を基調としたエントランスが広がっていて、彼らしいと含み笑いをする。

「おかえりなさい。結構遅かっ――」

すると右手に続く廊下から無防備にもひょっこり馨が顔を出した。

「あっ…………」

柳小路と目が合うと、途端に固まり、驚きのあまり立ちすくむ。
うろたえる様子が手に取るように伝わって、思わず苦笑を漏らした。

「私が来ては迷惑だったか」
「あ、っいえ……ちがっ……」
「和久井君から話は聞いた。……いや、話を聞かなくても君を迎えに行くつもりだった」
「えっ」

その言葉に馨の表情が変わった。
気まずさに背けたままだった顔を上げ、もう一度柳小路と目を合わせる。
だがそれは一瞬のことで、負い目を感じたのかすぐにまた逸らされてしまった。

「……そ、そんな都合の良いこと、僕には出来ません」

馨らしい返事だった。
初めて会った時から同じ態度で、常に全てから一線置こうとしている。
そのたびに「可愛げない」と笑ったが、今なら心境が手に取るように分かる。
馨は崇より複雑だ。
甘えたいからこそ、可愛くないことを言う。
ひとりになる辛さを知っているからこそ、いつひとりに戻ってもいいように心を開かない。
矛盾が絡んでより難解になっているのだ。
どちらも彼にとっては真実で、相反するからこそ、その精神は常に不安定だ。
信頼したい、けど、いつまたひとりぼっちになるのが恐い。
(やっぱり崇、お前は馬鹿だったよ)
こんな子をひとり残して逝くなんて愚かにもほどがある。
甘え下手の子供をひとりぼっちにするなんて、あまりに酷だ。

「分かった」

しばらくの沈黙のあと、柳小路は小さく呟いた。
その声に馨の肩がビクリとはね総身を硬くする。

「君の望むようにしたい。私のもとへ帰るのが不都合ならそれで構わない」

柳小路は靴箱の上に借りた鍵を置いた。
取り付けられた鈴が寂しそうにチャリンと鳴る。

「和久井君のそばが落ち着くなら彼に話をつけるから、君はそのまま部屋で待っているといい」

馨に一瞥すると背を向けた。
こうすればもう顔は見えない。
今、何を思って、どんな風に背を見つめているのか。
視線が集中する背中が焼けるように熱く焦燥感が襲う。
しかし態度には表さずあくまで冷静を装う。
白熱灯の温かな光が二人を照らしていた。
ほんの僅かな静寂。
途切れたまま話の継穂を失う。
ドアノブを回せば無機質な金属音がした。
柳小路は静かに目を閉じる。

「ま、まっ――――待って!」

すると、いとけない手が伸びて、目の前のスーツを掴んだ。
止めたのは誰でもない馨だった。
彼は出て行こうとする柳小路にしがみつくと、引きとめようとした。
声は途中で掻き消される。
柳小路が手を取り、力強く抱き締めたからだ。

「お、お、おじさっ」
「ああ、良かった」
「え……?」
「本当に良かった……。このまま引き止められなかったらどうしようかと思った」
「……っぅ……」

小さな体をめいっぱいに抱き締め、安堵の息を吐く。

「馨、君の望みを言いなさい。本当に望んでいることだけ口にしなさい。君はそれを現実にする力を持っているんだ」
「でもっ……僕はっ……おじさまを信じなくて……」
「最初に信用を失わせるようなことをしたのは私だ。だから負い目を感じなくていい。君は何も悪くない」
「ど、してっ……いつもそうやって甘やかそうとするんですっ……怒鳴られてなじられた方がよっぽど――」

腕を解くと、胸元には震える馨がいた。
大きな瞳いっぱいに涙を滲ませ、それでも泣くまいと気を張っている。
その強さが愛しかった。

「君はちゃんと言葉にしないと伝わらないのだな。分かった。これからは言葉にする。馨が好きなんだって」
「――――っ」
「私は数々の男を抱いてきた。事実だから否定はしない。だけど自ら求めたのは馨だけだ。初めて見た時から君を欲しいと思った。本当は参列するだけだった通夜で、気付いたらハンカチを渡していた。最低なのは知っている。……だが、弟の息子だと分かっていても、年の差を理解していても、どうしても欲しかった。崇じゃなくて君が必要だったんだ」
「そんなっ……うそっ……」
「私は紳士だ。この状況で嘘を吐けるほど不誠実には生きていない。いい歳した大人が、子供相手にひと目惚れだと告白しているんだぞ」

そっと手を寄せ、赤く染まった豊頬に触れる。

「しかし参ったな。紳士といえども日本男児だ。好きという言葉は気恥ずかしくて中々言えなかった。こんなことなら初めに伝えるべきだった」

柳小路にも苦手なことのひとつやふたつはある。
普段あれだけキザったらしいことを言っていても、募っていく好きの言葉は伝えられなかった。
本心こそ隠しておきたいもの。
だからこそ、他の甘い言葉はいくらでも吐けた。
ポーカーフェイスを気取っていられたのだ。

「お、おあいこです。僕も素直になれなかったから」

馨は頬を包み込む柳小路の手の上に自らのを重ねた。

「惹かれていたのに、あなたが僕を好いてくれる理由が分かりませんでした。だから自信がなくて、素直に言葉を受け止められなかった」
「それは君のせいじゃないだろう? 私が臆病だからだ」

すると彼は無言で首を振り、

「恐くて僕も言えなかった。おじさまと同罪です」
「馨……」
「その不安を断ち切るためにおじさまのもとを離れました。でも心に残っている言葉があるんです。パーティーの時「目に見える形だけに囚われていると、瞳は濁り、大切なものを見誤る」と、仰いましたよね?」
「ああ」
「おじさまは変わっているところがあるけど、間違ったことは言いません。だからひとりになった時、考えました」

馨はズボンのポケットから一枚の名刺を取り出した。
それはパーティーの時に和久井からもらった名刺だった。

「僕はおじいさまの遺産や、父さんとの関係は知りません。あなたがどんな人生を歩み、どんな恋をしてきたのかも」
「…………」
「でもアパートで暮らし始めた以降のことは知っています。実は好奇心旺盛で、料理だって熱心だし、根性もある。意外とふざけるのが好きだったり、お坊ちゃまのくせに銭湯で泳いだりしましたよね」
「そうだな」
「周りの知らないあなたを知っている。でも、僕さえ知らないあなただっているに決まっている。形に囚われて、このまま流されたくないと思いました。その時、おばあさまが現れて、家を出ることにしたんです。でもこのままアパートに帰るのも嫌で、和久井さんを頼ったんです。あなたの言うとおり和久井さんは凄い人でした。彼は真剣に話を聞き、一日中頭の整理に付き合ってくれたんです。身なりだけで偏見を持とうとしていたのに」
「それでここにいたのか」
「……はい。和久井さんは僕に似ていると思いました。僕も独りぼっちで世界の異物だって思っていたから。おじさんの家でも馴染めなくて寂しかった。家族が増えたし、みんな良くしてくれたのに孤独だった。でも和久井さんは「アナタは独りぼっちじゃない」と、諭してくれました。僕にはおじさまがいるって」

馨が持っていた名刺はよれよれになっていた。
きっと和久井に頼ろうとしたのも大きな決断で、勇気を振り絞ったに違いない。
全ては柳小路と向き合うためだ。

「ははっでも、やだな。おじさまの顔見ちゃうとどうしても素直になれない。もっと頭を冷やすべきなのか」
「気にするな。今の君は十分素直だ」
「これだけは言わせてください。……僕、可愛げないことを言っちゃいますけど、本当は違うんです。本当は、おじさまが――」
「…………」
「おじさまが好きなんです。ずっと一緒にいたいって思っているんです」

初めて馨の口から好きという言葉が出てきた。
たった二文字に踊らされるなんて馬鹿げている。
なのに情意は溢れて、声になんかならなかった。
感慨深いという言葉だけでは収まりきれない。
文章でご飯を食べているのに、普段紳士を気取っているのに、的確な台詞が出て来ない。
無性に募る愛しさに溺れてしまいそうだ。
柳小路は手のひらに口付けた。
途端に耳まで赤くなる馨の頬に、額に口付ける。
森閑として物音ひとつしない室内に吐息の漏れる音だけ聞こえた。

「帰ってきて欲しい」

柳小路は優しく微笑んで手を繋ぐ。

「君のためにだし巻き卵を作った。ちゃんと採点してもらわないと困る」
「おじさま……」
「今度のは結構自信作だ」

その言葉に、ようやく馨は柔らかい表情になって、繋いだ手を握り返した。

 

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