3

「はぁ……苦しい……」

ようやく丸尾の位置から死角に入ると詰まっていた息を静かに吐いた。
体育館の壁に背を預けて胸元を掴んでいた手を離して空を仰ぎ見る。
しとしと降り続く雨は果てが見えず、切れ間のない灰色の雲が物憂げに流れていた。
(さすがに今日は公園にいないよな)
昨日より広がった水たまりには、いくつもの波紋が現れては溶けて消えた。
雨音に包まれた校舎で、友人の騒々しい声が遠くに聞こえる。
気持ちを落ち着かせた宇佐美は意を決すると、いつもの騒がしさの中へと戻っていった。

放課後は色とりどりの傘が花開く。
友人宅でテレビゲームをした宇佐美はいつものように帰路についた。
陰々とした雨は降り続き、視界を濁らせる。
まだ夕方だというのに、陽の出ない空は黒々しく澱んでいた。
靴の中に染込んだ雨が気持ち悪い感触を残し、指先がむず痒くなる。
その日は午後まで雨ということもあって遠回りしなかった。
――いや、友達とテレビゲームに夢中になって家を出るのが遅くなってしまった為、遠回りする余裕がなかった。
小走りに雨の中を帰る。
手足は悴んで、早く温かな風呂に入りたいと先を急いでいた。
そんな時、ふと足を止める。
いつの間にかいつもの小さな公園の前までやってきていたからだ。
宇佐美はほんの出来心で立ち止まると公園の中を覗きこむ。
(いるわけない。こんな雨の中いるわけないじゃないか)
だから避けているはずの道を選んだのだ。
相反する気持ちが隣り合わせになっている。
丸尾がいないと良いに決まっている――のに、いなかったら虚しい。
不可解な感情は理解しがたい誘惑だ。

「あ……」

だが、予想に反して丸尾はいた。
塾の鞄を背負った彼が滑り台の下で雨宿りしている。
小さく丸めた背中はどこか寂しそうに映った。
(あの馬鹿!)
宇佐美はなぜか苛立って丸尾に向かっていった。
関わり合いたくないのなら見つけても無視すればいいのに、体が勝手に動いてしまったのだ。

「なにやってんだよ!」

思わず出た言葉は怒気を含んでいて、丸尾は驚いたように振り返る。
滑り台の階段に掛けられた傘は濡れて雫が滴っていた。

「宇佐美……なんで……」
「なんでなんて、こっちの台詞だ!また塾サボってんのか!しかもこんな雨の日まで……」

ただでさえ寒いのに、また何時間もここで過ごすつもりだというのか。
自分で思うより怒っていた宇佐美は声を荒げずにはいられなかった。
それに対して戸惑う丸尾は呆気にとられたように彼を見る。
しかし負けてはいなかった。

「いいだろ。オレが何しようと宇佐美には関係ない」
「はぁ?人が心配してやってんのに」
「その割にここ数日オレを避けていたじゃん。気付かないと思ったのか」
「……っ……!」
「都合の良い時だけ声かけられたって迷惑だ。悪いけどそういうの理解出来ない」
「それは……っ」

反論出来なかった。
丸尾の言うとおりで、避けていたのは事実だからである。
じゃあなぜ今声をかけてしまった?
(分からない。ただ雨の中丸尾の背中が見えたから無性に苛立って……)
そもそも二人の始まりは唐突でよく覚えていない。
蘇るのは途方もなく赤い世界。
未熟な子供の感性に映し出されたそれは強く印象に残った。
ただひとり佇む丸尾の姿と揺れるブランコ、陽が沈む寂しい公園の光景が未だに目に焼きついて離れない。
だから引き返してまで彼に声をかけた。
どうでもいい存在の彼に。

「じゃ、じゃあオレだって言わせてもらうけど、なんでオレを見るんだよ」
「見る?」

宇佐美は反撃に出ることにした。
このままじゃ言い負けてしまうことは確実だったからである。

「給食の時間とか休み時間とかオレ見てんだろ!自意識過剰とか言うんじゃねえぞ。みんなも知っているんだからな」
「あっ……」
「ついでに観察なんて言うなら一生シカトしてやる」
「…………」

この問いにはさすがの丸尾も動揺した。
落ち着いていた表情が僅かに曇る。
それを感じ取った宇佐美も声を詰まらせた。
突然二人の間に沈黙が訪れる。
顔を背けた彼は赤面していた。
言い訳出来ないと困ったように歪ませる。

「…………そ、そんなに分かるほど見ていたのか?」
「あ、ああ」

調子の狂った宇佐美もつられたように顔を赤らめた。
すぐさま否定すると思っていたせいで面食らったのだ。

「……は、は、恥ずかしい……」

メガネの奥にある瞳が潤む。
耳まで赤くした彼にそれ以上問い詰められなくて、宇佐美は黙らざるを得なかった。
(無意識だったのか)
訊いてはいけないことを言ってしまった――と自覚した時には遅く気まずい空気が漂う。

「恥ずかしいのはこっちだ、馬鹿」
「そ、そうだよな。ごめん」

丸尾は一切否定せず素直に謝ったが、宇佐美としては反論してもらった方が楽で心地好いはずだ。
彼の恥じらいが伝わったせいで、余計に気まずくなり何も言えなくなる。
お互いの困惑が沈黙として表れると、次の言葉が出てこなくて、二の足を踏んだ。
途端に雨音は大きさを増して、他の余計な音は消え失せると、世界は二人だけのものになる。

「…………」

二人とも相手を見ることはない。
素知らぬ方向へ顔を背けて何も気付かない振りをした。

コーン、コーン。

どこかの工場で五時を知らせる鐘がなる。
思わず公園の時計を見れば、今まさに門限の五時になったばかりだった。

「ご、ごめん。また門限破らせちゃったな」

丸尾も同じことを思ったみたいで時計を見ている。
(お前のせいじゃないのに……)
内心そう思ったが口に出さなかった。

「……いいよ。別に」

チラッと覗き見た丸尾は宇佐美を気にしてあたふたしている。
自分のせいで門限に遅れたと思っているのだ。
宇佐美は自らの意志でここに来たのであって、丸尾には関係ない。
だけど自分のことで困っている彼の姿がおかしくて見守るほかなかった。
すると丸尾の口許が僅かに緩んだのが見える。

「どうしよう、オレ……っ。なんか、変だ」
「何が?」
「だってこんなことになって宇佐美に悪いって思っているのに、一方で嬉しいって思っている自分もいるんだ」
「…………」
「あ、で、でも宇佐美が門限破っておばさんに怒られるのが嬉しいんじゃなくてだな……お、オレのことを気にしてくれるのが、嬉しくて……」
「分かっているよ。そんなの」
「あ……う……」

(どこまで生真面目なんだろう)
下を向いた丸尾はまだ顔が赤い。
さっきからずっと、ずっと――朱い。
そんなに頬染めて恥ずかしがって何を思っているんだろうと考える。
もちろん答えなんて見つからない。
代わりに宇佐美は、手を伸ばした。
傘からはみ出た服が雨に濡れるが、気にも留めない。
丸尾の切り揃えられたサラサラの髪の毛に、りんごのように赤く膨れた頬に触れる。

「う……さみ……?」

ピクンと反応した彼が驚いたように顔をあげた。
メガネの奥の瞳はクリクリと動き宇佐美を見る。
さらに頬が赤く染まったように思えるのは欲目なのだろうか。
今までずっと丸尾の視線から逃げていた。
なのにこの瞬間臆面もなく彼を見ていられる。
こうして見つめ合えている。
柔らかな頬は熱く、産毛のくすぐったさが皮膚を走った。
どうして触れているのか分からないが、今はそんな理由必要ではない。

「宇佐美」

丸尾は嫌がるどころか、彼の手に自分の掌を重ねる。
表情を緩めてどこか安堵したように目を細める丸尾は初めて見る顔だった。

「丸尾……」

その仕草にゴクリと息を呑み、意を決する。
躊躇いなんてなかった。

「お前、本当は寂しいんじゃないか」
「え?」

すると丸尾はその言葉に戸惑い、瞠目すると体を離そうとする。
宇佐美は逃げないように手を掴んで踏み止まった。
今こそ真剣に話す時だと覚悟を決めていた彼は、普段のように茶化すことなく丸尾を見つめる。

「オレはクソ真面目な丸尾がどうして塾をサボるのかわかんねぇ。でも、お前の寂しさは感じる」
「……っ……」
「何か理由があるのか知らないけど、このままでいいのか?なんの問題も解決していないように思えるんだけど」

そう言うと丸尾は一変して泣きそうな顔になった。
さらに声をかけようかと思ったが、今度は睨まれて掴んでいた手を強引に振り解かれる。

「オレ、やっぱり宇佐美が嫌いだ!」

弾かれた手が痛かった。
それ以上に嫌いと言われた言葉が胸に刺さって抜けない。

「ああそうかよ。オレだってお前なんか嫌いだっ」
「……っぅ……!」

勢い余って反論してしまった。
ただの売り言葉に買い言葉だったのに丸尾の体が固まる。
同時に彼の瞳から一粒の涙が零れ落ちた。
反射的に零れた涙は丸尾すら気付かなかったらしく自ら動揺している。

「あ……っぅ……ひっぅ……」

一度溢れた涙は止まることが出来ずに丸尾の赤い頬を濡らした。
今まで大抵のことがあっても泣くことなんてなかった彼が、声を押し殺すように泣いている。
我慢するたびに漏れる嗚咽は余計に宇佐美の心臓を痛くさせた。
嫌いと言われて傷ついた時と違った痛みがズキズキと責め立てる。
なんで泣いているのか分からないほど鈍感ではない。

「オレのこと嫌いって言ったのに……オレが嫌いって言ったら泣くのか」
「ふ……うぅっ……ぅっ……」
「ちゃんと言葉にしなくちゃ伝わらないんだぞ。……オレは空気なんて読みたくないからな」
「……う……さみっ」

一度振り解かれた手を繋ぎなおすには勇気がいる。
それでも宇佐美は構うことなく丸尾の腕を掴み引き寄せた。
同時に持っていた傘が地面に落ちる。
泣くのを必死に堪えようと震えている彼の体は非力で小さく感じた。
丸尾の体は熱くて柔らかい。
ぎこちなく背中に手を回すと、拒んで強張っていた力が抜けた気がした。
肩口にうずくまる丸尾は恐る恐る宇佐美のシャツを握り、身を寄せる。

「ひっぅ……お、オレは……ふぅっ……宇佐美と違って空気読めないから……」
「だろうな」
「だから……おれ、オレっ……」

丸尾が喋るたび、首筋に息がかかってくすぐったい。
それ以上に熱い体温を感じて戸惑った。
とっくに五時を過ぎて暗さを増した公園に降り続く雨は冷たくて確実に体温を奪っていく。
滑り台の下は人ひとり入るだけできつく、二人は隠れるように身を寄せ合った。
しばらくして落ち着いた丸尾がポツリと呟くように話し始める。

「宇佐美の言っているとおりだ。オレは寂しかっただけなんだと思う」

その声は心細そうで居た堪れず、宇佐美は何度も相槌をうった。
耳を澄まして訊かなくては、雨に掻き消されてしまう。

「ううん。本当は不安もあった。周りから真面目って言われていることに戸惑いもあったし、褒められることに違和感があった」
「違和感?」
「うん。だってオレは自分で正しいと思ったことをやっていただけなのに、何が真面目なのか分からなかった。何より不真面目で迷惑ばっかりかけてる宇佐美の方が周りに好かれていたから……」
「なんだよ。文句あんのか」
「当たり前だよ。怒られてばかりいる宇佐美に友達がいて、褒められて偉いはずのオレに友達がひとりもいないなんて変じゃないか」

宇佐美の胸元でぷんすかと口を尖らせる丸尾は「理不尽だ」と睨みつけた。
(褒められて偉いことと、友達が居ないことは別件なんじゃ……)
内心そんなことを思ったが、丸尾の真意を訊くチャンスを逃せない彼は黙って受け入れた。
本来ならすぐにでも言い返しているところだが、今度ばかりはそうもいかない。
喧嘩別れにでもなったら、全てがパーである。

「違うのか?オレ間違っているか?」
「え、いや」

さすがに微妙な雰囲気だったのか不安げに丸尾が覗き込んだ。
それを否定も肯定も出来ずに宥めようとするが、先に彼が首を振る。

「……いいんだ。宇佐美じゃなくてオレが悪いって、ちゃんと分かっているから」
「え?」
「前にたまたまクラスメイトが話しているところを訊いてしまったんだ。オレは空気が読めない堅物だって。話していると苛々するんだって。……だから友達が出来ないって…………」
「あ……」

丸尾はまた泣きそうになっていた。
寸前のところをどうにか堪えている。
噛み締めた口許は震えて強張っている。

「あ、あーっと丸尾。泣くな?頼むから、な?」
「うぅ……」
「大丈夫、大丈夫」

どうにか耐えてくれと宇佐美は必死にあやした。
普段杏子にやっているように頭を撫でてみるが、同級生にやるのも変な気分である。
そのかいあってか、丸尾はポケットティッシュを取り出すと豪快に鼻をかんで、どうにか峠を越えた。

「ごめん。つい気持ちが昂ぶってしまった」
「いや、仕方がないだろ」

自分の知らないところで話題が出ているだけでも嫌なのに、それが悪口なら尚更傷つくはずだ。
丸尾は吐き捨てるように呟く。

「だいたい、空気なんて読めるわけないじゃないか」

泣きそうだったと思えば、次の瞬間には額に青筋が浮かんでいた。
どうやら思い出して腹が立っているのだろう。
忙しいやつだ。
それもまた彼の性格が関係していて、適当に流すことが出来ないからいちいち感情を露にする。
真面目であるほど神経質で繊細なのは、どうしようもないことなのかもしれない。

「空気なんて読めるほうがおかしいだろ?目に見えないんだぞ!そんな特殊能力、身に付くわけないじゃないか。それを当たり前のように口にするなんて変だ。何をもって読んでいると判断するんだ!そう思わないか?空気を読む瞬間がみんなには分かっているのか?だいたい誰がそれを正しい判断だと決める?」
「え、えーと……」
「ああ本当に腹が立つ!空気が読めない人間イコール出来の悪い人間だとレッテルを貼るのもどうなんだ!どうしてアイツらはあんなに上から目線なんだ!みんな授業は訊かないし、宿題だってしょっちゅう忘れるのにそんな人間が――」

丸尾は相当鬱憤が溜まっているらしく、延々と主張を続けた。
自分の正当性を弁じる姿は新鮮で、時折上手く相槌をうちながら訊く。
普段の丸尾はすまし顔で余程のことがないと声を荒げたりしない。
それこそ宇佐美を注意する時ぐらいだ。
その裏でどれほど我慢していたのだろうと考えるだけで切なくなる。
いつもひとりで問題集を解いている。
いつもひとりで本を読んでいる。
真面目を描いたような丸尾をお高く留まっていると揶揄するクラスメイトはいたし、宇佐美自身も理解出来ない――ひいては生きる世界が違うと見做していた。
――――でも、言えるわけないじゃないか。
影で空気が読めないと悪口言われて、どのツラ下げて「仲間に入れて」と言えるだろうか。
孤独。
丸尾を覆う大きな孤独は、ひとりで背負うには重すぎた。
いつかは必ず限界が訪れる。
宇佐美だって同じで、彼の場合、元々は空気を読みすぎる人間だった。
それが嫌で、あえて問題児のように傍若無人な振舞いを続けていたのである。
場を読むというのは、時として辟易とした感情を強いられ、我慢を覚えなくてはならない。
なぜなら状況は弁えても感情はイコールにならないからだ。
腹が立っても笑わなくてはならない時や、嫌でも受け入れなければならない時がある。
そういう時、彼は鈍感であることを望んだ。
気付かなければ知らなかった空気は、重く圧し掛かる。
打破するには宇佐美が道化になるしかなくて、見過ごせば残った罪悪感が責め立てた。
気付けば、雁字搦めになっていて、自己嫌悪を繰り返す。
無論、悪いことばかりではないと分かっていた。
元来のそういった性格から、宇佐美は多くの人に慕われ、人間関係で苦労したことはない。
丸尾の悩みだって彼だから気付けたのだ。
つまり、良いも悪いも使い方次第である。
しかし宇佐美の年齢でそこまで器用に生きられるはずもなく、ただ「空気を読め」という言葉を嫌悪していた。
その言葉を使う人間ほど実行出来ていないことを知っていたからだ。
場の雰囲気が読めるということは、賢く生きられるひとつの能力である。
だからといって、それが出来ない人間が劣っていると判断するのは、あまりに他人任せではないだろうか。
(空気を読めなんて、言わずに理解しろと言っているものだ)
無責任極まりなく、言った者勝ちである。
生真面目で不器用な丸尾が理解出来ないのは当然で、同時に不憫に思った。
空気が読めない丸尾と空気を読まない宇佐美は相反するが、根本は同じ悩みを抱えている。

「だからオレも宇佐美を見習って、ちょっとだけ不真面目になろうと思ったんだ!」
「は」
「足りないのはそこだと思って」

しかし丸尾はボタンを掛け違えていた。
どこで誤ったのか、根本的に解決方法を間違えていた。

「お前、まさかそれで塾をサボっているのか」
「う……」
「…………」
「あっ、宇佐美呆れているだろ!ち、違う!……す、少し違う。本当はもうひとつ理由がある」

宇佐美の反応を気にして慌てる丸尾だが、塾を休む別の理由なんてあてにならない。
無理やり付け加えそうな雰囲気だからだ。

「宇佐美は、真面目じゃなくても運動神経抜群だし、友達多いし、オレが持っていない物を沢山持っている。それはちゃんと認めているんだ。……でも、ならオレは真面目がなくなったら何が残るんだろうって思ったんだ」
「…………で」
「うぅ……。そんな目で見るなよ。本当なんだから」
「ふーん」
「そ、それで……結局、分かったのは何もないってことだったんだ。オレは真面目以外何もない」

 

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