君に叶う空の果て

年に一度、世界が生命で満たされる日がある。
ある地方では豊穣の喜びに歌い、その恵みに感謝をした。
一方で命を奪う不吉な日として生贄を捧げる地方もあった。
生と死は表裏一体である。
どちらにせよ、その日は古来より世界にとって――生き物にとって特別な日であった。

***

ぼくは兄の体越しに窓一面に広がる流星群を見た。
夏の暑い日だった。
黙り込む兄に連れられて見知らぬホテルに泊まった時のことだ。

「ふ…ぅっ……」

だいぶ年の離れた兄弟だった。
普段から色々なところに連れて行ってくれる兄だが、その日は様子が違った。
両親に内緒で遠出をするという。
いくつもの電車に揺られ、タクシーに乗せられ、辿り着いたのは山の中にある小さなホテルであった。
年季が入った建物は石で作られたせいか中世の古城である。
辺鄙な場所のせいか、あまり客もいない。
その客もそれぞれ事情を抱えているのか、後ろめたそうに顔を隠していた。

「んぅ、にいちゃ……」

部屋に入ってからのことは鮮明に覚えている。
兄はぼくの体を抱きしめた。
そしてベッドへ押し倒した。
力で勝てないぼくは、為すがまま兄を受け入れた。

「ひ…ぁ、あ…っ……」

甘く響く痛み、疼きにまどろみながら身を委ねる。
幼い口からは妖艶な吐息が漏れていた。
それがどういう行為だか知るわけもなく、新たな遊びのひとつだと思っていたのだ。
電気の消えた室内は夕暮れで赤く染まり、間もなく宵闇に落ちる。
どれぐらいそうしていたのか分からない。
兄はぼくの体を離そうとしなかった。
いつも穏やかな瞳で微笑んだ彼は真剣な眼差しでぼくを見ていた。
心地好い快楽に時折顔を歪ませながら肉体を弄ぶ。
素肌を晒したぼくは蕩けるような体の感触に酔い持て余していた。
恍惚とベッドに沈み、潤んだ瞳で兄を見上げる。
幼さゆえに体力が持たず眠り込んだが、次に目が覚めた時も体は繋がっていた。
スプリングの軋みで目が覚めたぼくは、ぬめった窄みに熱い摩擦を感じて喉を鳴らす。

「はぁ、ぁ…あぁっ…にいちゃ……」

少し強引に膝を割られてぼくは、兄の重みを知った。
彼の肌は焼けるように熱い。
二人とも汗まみれで、ひどく卑猥な匂いがした。
そうしてうっとり見上げると、兄の後ろで小さな星が光った。
一面に広がった窓に映るのは流れ星の大群である。
「あっ」と息を呑んだ。
だが、その瞬間、兄はぼくの体を入れかえてしまう。
彼は蜜まみれのシーツに倒れこんだ。
貧弱なぼくの体がその上に乗っかる。
と、同時に体の奥まで肉の杭が刺さって、思わず仰け反った。
僅かに残った痛みが甘くも苦い。
それが脳内に溶け込んで、すぐに快感へと変わった。
兄に揺さぶられて、ぼくは踊る。
彼の引き締まった肉体の上で淫らなダンスは続いた。
白いミルクが溢れて二人を汚す。
兄はそれでもじっと見ていた。
普段の優しげな兄とは何かが違う。
(なに……?)
娼婦顔負けの声で鳴きながら、違和感が頭を駆け巡った。
次第に兄の体が冷たくなる。
若く雄々しい肉体は今なおぼくの体を貪っていたのに、肌に寒気が走った。
まるで膨らんだ風船のどこかに小さな穴が開いたみたいに“何か”が抜けていく――。
ゆっくりと萎む花に触れているようだ。
途轍もない不安を覚える。
それが思考を蝕む。
真っ暗な室内に月明かりが差し込んでいた。
星が流れるたび兄の美しい顔が窺える。

「にい、ちゃ……?」

そこでようやく気付いてしまった。
兄は自分を見ていない。

「イっ……――!」

だが体は制御出来なかった。
ベッドは一段と激しく軋む。
ぼくは後ろに仰け反ると呼吸を止めた。
同時に体内に彼の精が取り込まれる。
――否、もしかしたら“生”だったのかもしれない。
二人は限界を越えると縺れるようにベッドへ沈んだ。
荒い吐息が漏れる。
だが兄の方が治まりが速かった。
いつの間にか正常に戻った彼が一呼吸置く。
そして消えそうな声で呟いた。

「……ごめん」

冷たい手のひらをぼくの頬に寄せる。
まるで石のように硬い感触だった。

「ようやく分かったんだ」
「え?」
「だから――ごめん」

ぼくは力尽きて兄の胸元に飛び込む。
あまりの刺激に激しく心臓が脈打っていた。
未だに息を乱しながら彼の言葉に耳を傾ける。

「ごめん。ごめん。ごめん……ごめん」
「はぁ…はぁ…にいちゃ……」
「ありがとう」

兄は目を細めて笑った。
突然礼を言われて戸惑う。
しかしぼくの好きな顔だった。
ふんわりと柔らかく笑う彼は、何かから解き放たれたように安らかな顔をしている。
今朝から様子がおかしかった兄がようやく戻ったと思った。
なら、この激しい遊びにも意味がある。
ぼくは安堵して目を閉じた。
その先には果て無き闇が待っている。

――流星群は未だに窓の外で輝いているのだろうか――。

閉じてしまった目蓋が重くて確認出来ない。
ぼんやり星の美しさを思い出しながら、意識はまどろむ。
まるで電源を落とされたロボットだ。
自らの意思とは関係なしに体は静に戻ろうとしている。
抗えるわけがなかった。

「ばいばい」

(何が?)
ぼんやり聞こえた兄の囁きがなぜか気に障る。
いつもの優しい声だった。
聞き返すことも出来ず目蓋は一段と重くなる。
まるで底なし沼に沈むようだ。
深い深い闇の世界。
光さえ届かない常闇の世界へ。
導かれるように薄れていく思考。
(ああ、そうか)
意識が途切れる瞬間、ふと“なにか”に気付いた。
だがそれは次に目が覚めた時、忘れているだろう。
記憶とは常に自分を守る為に存在している。
不必要な情報はすぐに脳が抹消してくれるのだ。
都合の良い記憶の辻褄で人は生きている。
否、そうして生かされているのかもしれない。
(………………寒い)
音ひとつしない胸の中は寒くて凍えた。

***

「会長、本当に泊まるんですか?」

秘書は津山の隣で恐る恐る問いかけた。
顔色を窺うように身を屈め、困った顔をしている。

「なんだその顔は。まさか君は本当にあの噂を信じているか?」
「いえ、私だって信じられないですけど……」

その割に語尾を濁している。
津山は一度ため息を吐くと前に居た運転手に合図した。
彼は慌てて外に出ると車のドアを開ける。

「ならばつまらないことを聞くな。こっちの楽しみまで削がれる」
「ですがね、事実だってあるんですよ。このホテルに泊まった人間は例外なく全員死んでいるって――」

カツンと音がした。
磨かれた靴が地面に降り立った音だ。
津山は老いた肉体を絞るように捩ると外へ出る。
広葉樹林に囲まれているせいか一段と空気が美味しかった。
津山は見上げる。
深い山の奥に現れたのは古城のホテル。
ひっそりと佇むには存在感がありすぎる。
日が暮れて明かりの灯ったホテルはお化け屋敷のようだった。

「愚かな」

秘書の戯言を一蹴する。
鼻で笑うと気にも留めずにホテルへ入っていった。
その後を秘書が慌てて追いかける。

「いらっしゃいませ」

入ってすぐのロビーは吹き抜けで中央には豪華なシャンデリアが吊るされていた。
敷き詰められたエンジの絨毯がよく映える。
津山は何を思ってか周囲を見回した。
ロビーには結構な人数の客が寛いでいる。
年齢層はバラバラで、どこか人を寄せ付けないオーラがあった。
皆が今日の流星群を話題にしている。

「000室にご予約の津山様ですね」

すると津山の前に小さな影が出来た。
振り返れば小奇麗な格好した男が立っている。
彼は恭しく頭を下げると柔らかく微笑んだ。

「お待ちしておりました。支配人の竜崎です」

堅めの詰襟に黒の蝶ネクタイ。
真っ白く染まった頭はどこか気品ありげに映った。
津山も様々な業界人を見てきた男である。
彼は人を見る目に長けていた。
まるで観察するように眼光鋭く相手を見つめると深く頷く。
竜崎は津山を誘導するように招いた。
手には部屋のキーが握られてる。
(フロントに通すなということだろうか)
津山は何も言わず鍵を受け取った。
そこには000号室と書かれたプレートが付いている。

「ご予約時の契約書通りでございます」
「…………」
「以後、お客様に何があろうとも当ホテルは何の関与も致しません」
「無論承知の上だ。アレも持って来ている」
「左様でございますか。ではどうぞ。立ち話も何ですから早速お部屋へお通し致しましょう」

竜崎は道をあけるように端へ退いた。
満足そうに頷くと彼らを促す。
津山は手ぶらだった。
手荷物ひとつ持たずにやってきたためベルボーイは必要ない。
彼は一般客用とは違ったやけに古いエレベーターに乗った。
それを見計らって先に乗っていた竜崎が非常ボタンの下にある鍵穴へキーを差し込むと、勝手にエレベーターは動き出す。
秘書はいきなりのことに悲鳴を噛み殺すが、そんなの序の口で、鉄の箱は階が表示されないまま上がったり下がったりを繰り返す。
そうして津山たちを弄ぶようにエレベーターは動き続けると、急にある階で止まった。
津山の後ろで秘書は怯えたように辺りを見回す。

「お連れの方は先にお待ちです。津山様の隣の部屋にチェックイン致しました」
「ふん。そうか」

扉が開くと両サイドに伸びた廊下が目に入った。
右を向いても左を向いても、廊下が続いている。
他の階ならあるであろう部屋の扉が見当たらなかった。

「さぁ、こちらです」

竜崎が先に歩き出すと、あとに津山が続く。
一見異様な雰囲気だが彼に恐れはない。
それどころか口許を僅かに歪ませていた。

「この階は普段無人なのですが、両端に二部屋ずつ客室を用意しているのです。いわばVIPルームと申しましょうか」
「…………」
「階段はございません。外へ出られる場合は予めフロントにご連絡をお願い致します。そうしましたらベルマンが直ちにこちらへ参りますので」
「そうか。分かった」
「少々不便ですがご勘弁を――――さぁ、あちらのお部屋でございます」

細く長い廊下の先にドアが二つ続いていた。
そこだけアンティークランプが灯っている。
竜崎とはそこで別れた。
彼は深く頭を下げると颯爽と来た道を戻っていく。
足元にしか明かりのない廊下は異様に薄暗かった。

「うへぇ、やっぱり今日泊まります?」

雰囲気に堪りかねた秘書が口を尖らせる。
彼は嫌そうに何度も振り返った。
しんと静まり返った廊下は蛇のように長い。
足音さえ静寂へと溶けた。

「ここ何階なんでしょうね。しかもなんでこんな部屋を作ったんだか……。さっぱり理解できませんよ」

気味悪そうに言いながら津山のあとに続く。
泊まる部屋はまだ先だった。
彼は「部屋まで案内してくれればいいのに」と呟いている。
竜崎のことを言っているのだろう。

「関わり合いたくないのだろう」
「ですが、それでは職務放棄もいいところですよ。まったく、会長を誰だと思って」
「始めの契約書通りだ。仕方がない」

竜崎にとって津山が誰であろうとどうでもいいのだ。
だから最低限のもてなししかしない。
扉のない廊下は思ったより威圧感が酷い。
突如迷路に迷い込んだような錯覚を抱き秘書は早歩きになった。
いつもは津山の後ろに着いて来るのだが、同列に並ぼうとしている。
彼は明らかな空気の違いに気付いているのだ。
エレベーターを下りた時から違う世界に足を踏み入れている。
それでも職務に忠実な彼は逃げようとはしなかった。
黙々と歩みを進める。

「……あの」

部屋の前まで来たところで秘書はもう一度口を開いた。
遠慮がちに津山を見つめる。

「会長、やはり――」
「君もくどいな」

それに対して津山は言葉尻を和らげた。
秘書はよほど怯えているのかいつもより縮こまっている。
それが可笑しかったのだ。

「さっきはこの部屋に泊まった人間全て死ぬと言ったが、そうじゃないだろう?」
「で、でもっですね…」
「ひとり助かった少年がいると調べてきたのは誰でもない君ではないか」
「…………」
「第一に部屋に泊まったぐらいで死ぬものか。いきなり怪物でも現れて喰われると言うのか。馬鹿馬鹿しい」

死んだといえども原因は様々である。
記事には二種類に分かれると書かれてあった。
自殺か衰弱死か。
津山なら後者であろう。
だが生憎ここに来る前に受けた健康診断では特に異常なしだった。
それどころか年齢にしては元気であると主治医からお墨付きを頂いたぐらいである。
何より最初にこのホテルを見つけたのは秘書だった。
週刊誌に載せてあった嘘くさい記事。
「泊まると必ず死ぬ部屋」
無論、ホテル名は隠されていたが突き止めるのは簡単だった。
築150年の老舗ホテルである。
一切の広告はなく、隠れた穴場として各業界人御用達の宿であった。
そこの一室に、泊まってはいけない部屋があるという。
部屋は年に一度特別に開放される日がある。

古来よりケルト人はダーナ神族を崇めた。
神族というが、神ではない。
ただの人間だが地球のエネルギーを捉える能力に長け、天文学の知識も豊富だった。
それゆえ当時のケルト人は彼らを魔法の民として崇め、神と平伏した。
学校の教科書に載っているストーンヘンジは有名だろう。
そんな彼らが年に一度命の祭りをする日があった。
ダーナ神族は地球の鼓動が聞こえていたのかもしれない。
彼らは最も地球が呼応する日に祈りを捧げた。
奇しくも後の世では世界の至るところで同じ日に祭が行われていたらしい。
それを偶然と捉えるのは容易い。
だが津山は面白がっていた。
とうに傘寿を越え老いた身である。
酸いも甘いも吸い尽くした彼は常識などどうでもよかった。
今の彼なら幽霊もUFOも信じるかもしれない。
理論で説明がつくほど世界は薄っぺらいものではないと知っているからだ。
でなければ自分が会長と呼ばれる身分になれるはずがない。
津山は20世紀の不動産王として君臨していた。
この場で彼の来歴を語る必要はないが、いうなれば超やり手の営業マンであり経営者であった。
とはいえ年齢に勝てるはずもなく、彼はとっくに若い男に会社を譲った。
その男も若い頃の津山を彷彿とさせる鋭い男だった。
とにかく彼は一代で巨万の富と不動の地位を手に入れた。
しいていえば人生の伴侶が見つからなかったが、津山は不満に思ったことはなかった。
話を戻そう。
つまりダーナ神族が特別な祭りをした日に合わせて年に一度000号室の扉は開かれるのだ。
なぜか分からない。
創業者が元々彼らの伝統に興味があったのか、それとも――。
考えても仕方がないことだ。
この部屋を作った人間はとうの昔に死んでいるのだから。

「分かりました。会長。私はもう何も言いません」
「うむ」
「しかし隣の部屋に会長の主治医を始めとした医療チームを待機させております。先に来て000号室に異常がないか調べてあります。もし何かあった場合すぐにでもご連絡下さい」

津山は深く頷いた。
孫ほどに年の離れた秘書に目を細める。
彼は凡庸な男だった。
しかし津山を理解しようと一生懸命だった。
彼は津山が一度言い出したら聞かないことを知っている。
ここに来るまで散々揉めたが、いつも彼は味方になった。
八十を過ぎても会長は会長である。
役員は彼が危険な場所に行くことに躊躇い反対していた。
本来なら「泊まれば必ず死ぬ部屋」などというオカルトな噂には耳を貸さない。
テレビや雑誌に載っても「嘘付け」「偶然だ」で終わるだろう。
しかし身内がそこに泊まるとなれば別だった。
些細な噂でも気に留める。
人間とはそういうものだ。
津山はそれでも泊まると言って聞かない。
頑固なのは性分だ。
だから秘書はむやみに反対しなかった。
そうすれば拗ねて不機嫌になり面倒なことになるのも分かっていた。
否――、ひとりぼっちの寂しい老人としての一面を思ってかもしれない。
全てを手に入れた男は虚無にも見えた。
第一線を退き、暇を持て余した津山はどこかおぼろげだった。
そんな時、このホテルの話を聞きつけ楽しそうにはしゃいでいたのに、どうして反対できよう。

「君は責任を感じなくていい」
「えっ?」

津山は握られたキーを鍵穴に差した。
カチャ、と開く音が暗い廊下に響く。
秘書は思わず顔をあげた。
考えていたことを見透かされた気がしたからだ。

「よくこのホテルを見つけてくれたな」

珍しく津山は優しく微笑んだ。
会議では容赦なく怒号が飛ぶ口許も緩んでいる。
彼は驚いた。
そんな風に褒められたことは一度だってないからだ。
だが言葉を発するより先に津山がドアを開けた。

「じゃあまた明日な」

秘書の言葉を待たずに彼は中へ入ってしまう。
それを見送ることしか出来なかった。
(明日になればいつもの会長が出てくるに決まっている)
半ば願いのような思いでドアの前に立ち尽くす。
暗がりにランプの明かりが揺らめいた。
(そうだ……死ぬわけない)
何とか思い直す。
そうして自らを叱咤した。
彼は津山を尊敬している。
そしてあっさり死ぬような男ではないことも分かっていた。
力に任せてぎゅっと手を握る。
そうして表情を引き締めると、隣の部屋にいる仲間たちの許へ向かった。

***

室内に入った津山は忙しなく辺りを見回した。
入り口にあったスイッチを押せば明かりがつく。
中はVIPルームと呼ぶにはお粗末な広さだった。
むしろ自宅の寝室の方が広いかもしれない。
部屋にあった家具も特別格調高いものでもなければいたって普通だった。

「何人がここで死んだんだか」

ポツリと呟く。
隣には信頼の置ける部下が見張っているようだが、物音ひとつしなかった。
防音設備でもあるのか一切の音が遮断されている。
(いや、防音ではなく――)
その時、頭上で古びた小型のシャンデリアが翳った。
気味悪く点滅を繰り返している。
津山は全ての電気を消した。
途端に部屋は暗闇に包まれる。
最初こそ何も見えなかったが、目が慣れるとそれなりに室内が見渡せるようになった。
窓のない居間を抜け、彼はドアを開けた。
隣は寝室でベッドが中央に置いてある。
そこには大きな窓があり、月明かりが部屋に射し込んでいた。

「ああ……」

津山は何を思ってか感慨あるため息を吐く。
誘われるがままベッドに倒れこんだ。
真っ先に飛び込んでくるのは遮るもののない夜空。
先ほどまで夕暮れだった空は一面群青に染まり威圧的に鎮座していた。
(死が連なるホテルにしては美しいな)
深く息を吸うと、少しだけ埃臭い。
それはきっと普段は使われることのない部屋だからであろう。
この部屋は待っているのだ。
年に一度、足を踏み入れてくる愚か者を。
150年間死の連鎖の中心にいながら、それでも機能し続けたのはなぜだ。
津山だって秘書が見せなければ知らなかった。
くだらない情報で溢れたワイドショーすら取り上げることのない違和感。
当たり前のように営業を続けるホテルマンたち。
津山は寝転がりながら背広に手を伸ばした。
中から一枚の紙を取り出すと広げる。
大きな文字で「遺書」と書かれていた。
無論、津山のサイン付きである。
000号室に泊まる条件はただひとつだった。
それは遺書を書いてくること。
逆に言い換えれば、それ以外の条件はなかった。
相手がどんな人間であろうと――老いていようが若かろうが、有名であろうがなかろうが、全ては不必要な情報だった。
つまり「死」を前提に物事が進むゆえ、他はどうでもいいのである。

「――さて、死とやら、どこからでもかかって来なさい」

津山は自嘲気味に笑った。
そうして遺書を仕舞うと、今度は手帳を取り出す。
(今度は殺し損なうことのないように)
手帳には一枚のモノクロ写真が挟まれていた。
まだ幼かった頃、懐いていた兄と一緒に写った写真である。
彼は兄に抱きつき仲睦まじく寄り添っていた。
辺りを見回すと鮮明に蘇ってくる記憶がある。
きっと七十年前にここを訪れた時と何ら変わりない景色だからだ。
甘い痺れが肉体に宿る。

「……どうしてだろうな」

津山は皺だらけの手を天井へ伸ばした。
何も掴むことなく宙を舞う手のひらはすぐに落ちる。
老いた体は関節が軋んで無理な姿勢を維持できない。
兄とこのホテルで一夜を過ごしたあと、目が覚めたら病院の一室にいた。
両親は何も言わなかった。
兄の死は表ざたにならなかった。
だから幼い津山は自然と彼の死を受け入れた。
なぜそんな風に納得できたのか謎で、本人も説明できない。
このホテルさえ、何十年も時を経て秘書が記事を見せるまで忘れていた。

しかしそんな津山にも異変はあった。
病院で目覚めた日から、頭に靄がかかったような気持ち悪さが消えなくなった。
常に満たされることのない苦痛は思ったより酷く、憂鬱な気分にさせた。
今でこそうつ病なる病名があるが、当時は認識なく母親に気を強く持ちなさいと叱られた。
だから津山は考えた。
未熟な頭で一生懸命考えた。
そしてようやくひとつの結論に至った。
幸せになれば霞がかった思考も晴れるのではないか――と。
実に単純明快な答えである。
しかしそれが彼の生きる原動力になった。
以降彼は血の滲むような努力で経済界にのし上がった。
誰もが羨む生活を手に入れ、不動の地位をこの手にした。
しいていえば子供はいない。
だが、寂しい人生を送ってきたつもりはなかった。
いい女とそれなりの関係になったこともあるし、若い頃は気が済むまで遊び歩いたこともある。
それでも頭の靄は晴れなかった。
まるで蜘蛛の巣でも張られたように埃被った記憶が存在する。
あらゆる病院で見てもらったが異常はない。
津山は老いただけだった。

「…………」

写真の中の兄よりずっと老いた自分がいる。
鏡で見るたびにこの化け物は誰だと笑いたくなった。
未だに兄の面影を探す自分が居る。

――その時だった。
窓の外がにわかに明るくなった。
写真から目を逸らせば、眩い夜空に線が走る。
ようやく流星群がお目見えしたというのだ。
今頃、あのロビーでは客達の歓声に沸いているだろう。
鮮やかなほど澄み渡った空に、いくつもの筋が現れては消えていく。
巨大な星の群れ。
津山は寝そべったまま見惚れるように夜空を眺めた。
次第に激しさを増す星の流れは目に余るほど広くなっていき、空を覆う。
(……生きている)
変な音がした。
頭の中で響いた。
それはごく小さな鼓動に聞こえる。
ドクン、ドクン……。
津山はいつしか瞬きも忘れて流星群に見張った。
一瞬目蓋を閉じることさえ惜しいと思った。

「あ…あぁ……」

頭の中で響く鼓動が速くなる。
同時に肉体が重くなるのを感じた。
いまや、窓枠すら見えず、津山は星々の中で呼吸をしているようだ。
手が届く距離に星の息吹を感じる。
――そうだ。
響く鼓動は星の命だ。
地球上に満ちた命が星と共に飛んでいく。

――命はどこから来て、どこへ行くのか――。

誰しも一度は思うであろう疑問が糸のように解けた。
科学者ならば説明出来るのだろうか。
詩人ならば綴れるのだろうか。
生憎どちらの能力もない津山は言葉に出来なかった。
理解を超える理解を得た時、それを表現するのは至難の業だ。
まるで水のように染込んでいく情報に細胞が踊る。
これが実感というものなのか。
他人には理解できない。
言葉だけで理解出来るのならば、もはやそれは全くの別物になってしまった残骸だ。
津山はゆりかごの中に居た。
地球という母体の中で夢を見ているようだった。
透けて見えた銀河の果てで、常に“何か”は生まれ、その反面“何か”は死ぬ。
最もシンプルな循環がこの星では行われているのだ。
――そう、地球は息をしている。
命を吸い、命を吐いているだけに過ぎないのだ。

「ほ……ぅ……」

薄くなった息が漏れる。
記録映画を見ているような気分だった。
いうなれば走馬灯。
死へと続く道。
(なぜ泊まると死ぬ……?)
(それはきっと全てを知ってしまうからなんだ)
(知ると死ぬのか)
(それ以上の成長は不必要になる。ならば細胞はこれ以上分裂する必要が無くなる)
津山は可笑しな自問自答をしていた。
まるで誰かと会話をしているような錯覚を起こす。
無論、そんな人間はどこにもいない。
この部屋には津山以外、誰ひとりとして存在していないのだ。
人の細胞は六年周期で全て生まれ変わるという。
生涯学習のキャッチコピーよろしく脳は鍛えることで衰えは防げる。
それでも年には勝てない。
老いには勝てない。
きっと細胞は主の知らぬ間に理解するのだ。
体に宿る生命の期限を。
極限まで成長を遂げれば、あとは死に向かいゆっくりと歩みだす。
この部屋は一晩でそれをやってのけることが出来るのだ。
なぜだか分からない。
分かるほど人は賢く作られていない。
その矛盾に薄ら笑みを浮かべた。
違う。
その矛盾こそが生命を物語っている。
人は神になり得ない。
弱く脆い生き物だ。
だから集団で行動し、支えあうことで命を保とうとする。
弱者であるが故に、人間は数を増やし地球の主導権を握ったのだ。
(所詮、全てを理解したとして、それは全の中の一に過ぎない)
ああそうか。
津山は唐突に納得した。
なぜここで死ぬ人間が二種類に分かれるのか。
自殺を選ぶ人間がいたのか。

「驕りなんだ…そうだろう?」

人は無限の可能性を信じている。
だがそれが有限であると知った時、失望に変わる。
人は神になり得ない。
全てを知った、理解した。
だがそれは人間の範疇だけの話であり、その奥には膨大な謎が残っている。
奇しくも理解することで、どうあがいても踏み込めない領域があることを知るのだ。
地球は人の手に余る。
同様、命は人の手に余る。
人は万能ではないのだ。
どんなに頑張っても敵わないものがある。
どう足掻いても逃れられないものがある。
だから絶望するのだ。
世界がモノクロになる。
自らが無能だと知った時、生きることを拒むのかもしれない。
津山はそれが驕りであること知っていた。
ずいぶん辛酸を舐めてきた男である。
自らが無知であること、無能であることはよく分かっていた。
世間は言う。
津山が動けば経済は動くと。
だがそれは嘘だ。
自分がいなければ経済が回らない、仕事が回らないなど自意識過剰もいいところである。
残念ながらここで津山が死のうとも、翌日には違う者が彼の代わりに経済を動かすことになる。
それこそが循環だ。
その歯車を止めることは誰にも出来ない。
もし止める日が来るのだとしたら、人々が死に絶えた時だ。
だがそれでも生命の歯車は止まらない。
僅かでも生き残った生命がまた命を増やしていくからだ。
絶滅した恐竜の下で――土の中で蠢く命はどれほどいたか。
地球は息をしている。
その間は、何かが生まれ、何かが死ぬ。
循環を止めることなど不可能。
星が死ぬまで延々と続くのだ。

「ああ…そうか」

津山はぼんやり足元を見た。
誰かが立っているような気がした。
顔は見えない。
しかし誰だかわかっていた。
その間に星の瞬きは最高潮を迎える。
あれだけ美しかった空は真っ赤に染まっていた。
ずっとずっと深い濃影の朱。
(私の細胞が朽ちていく)
重くなった肉体はもう動けなかった。
土に還る時が来たのだ。
そしてまたどこかで新たな命が生まれるのだろう。
人は死ぬと21グラム軽くなる。
それが心だとしたらロマンチックな話だ。
堅物な脳の重さよりずっと軽くて楽である。

「私は、私を受け入れる」

絶望して刃を突き立てはしない。
滅びゆく肉体と共に目を閉じようと思う。
ありのまま、為すがまま生きて死ぬ。
そうなった時、津山はようやく新しい扉を開けた。
眩い扉だった。
その先は白くて見えない。
だが靄がかっていた頭が冴えていく。
晴れ渡る空のように目覚めていく。
同時に消えていた記憶が蘇った。
それは辛くて悲しい記憶だった。
だがその割に口許が緩んでいた。
思い出せた自分が嬉しかったのだ。
ようやく欠けていた心が融合される。
同時に彼の精神は満たされ浄化した。

「どうして忘れていたんだろうな」

足元にいる彼に問いかける。
彼は笑った。
“ぼく”の好きな顔だった。
あなたもきっと理解したのだろう。
苦しみの皮を剥いで自由を手に入れるように。

「良かったよ。八十まで生きて。じゃなきゃきっと、この日は訪れなかった」

答えはいつもシンプルだ。
近すぎて見えなかったものが今なら見える。
ぼくが幼すぎて、たくさんの苦悩を背負わせてしまった。
言葉に出来る時代ではなかったんだね。
でもこれ以上過去を悔やんでも仕方がない。
だから今、ちゃんと言葉にする。
命が尽きる最後のときに。

「……ぼくは、お兄ちゃんがずっと好きだったよ」

――翌日見つかった老人の遺体は幸せそうに笑みを浮かべていて。
――誰かと手を繋ぐように握られていた。

END