3

――お蔭でその日の部活は使い物にならなかった。
大抵のことがあっても弓道をすれば集中力を取り戻すし、冷静になれた。
しかしその日だけは、どうしても精神が安定せず心を乱していた。
的に当たらず余計にむしゃくしゃする。
すると不思議なもので体が勝手に強張った。
余計に型は崩れて散々な結果になる。
無論、すぐ顧問の先生にも気付かれてしまった。
そのせいで弓を取り上げられると校庭五周を命じられた。
伊瀬は袴のまま校庭を走る。
校庭では野球部とサッカー部が二つに分かれて練習していた。

「はぁ……はぁ……」

ひとり寂しくその合間を縫って走り続ける。
伊瀬は相変わらず部活仲間と楽しそうにボールを蹴っていた。
彼は一年生にしてレギュラー入りしている。
それをネット越しに女子生徒たちが見ていた。
中には噂の斉藤もいる。
彼女は他の子に比べると垢抜けて可愛かった。
それは小学生の頃からである。
いつもお洒落なスカートやジーンズを履いていた。
髪の毛を二つに結び赤いリボンをつけている。
芋っぽい女子たちの中では浮いていた。
それはきっと彼女が都会から転入してきたからであろう。
地元の子供たちとは違った雰囲気を纏っていた。
だからといって、中村のようにはぶかれたわけもなく。
それどころかみんなから好かれていた。
それは斉藤が明るくて優しい性格だったからであろうか。
都会の華やかさに自身の明るさが加われば妬む隙もない。
今は伊瀬と一緒に学級委員をしていた。

「はぁ…はぁっ……」

(だめだ。だめだ)
中村はつい斉藤を目で追ってしまい首を振った。
彼女の視線の先には伊瀬がいる。
シュートを決めたのだろうか。
ひと際騒がしく盛り上がっていた。
先輩とハイタッチをしている伊瀬は楽しそうである。
女子たちの声援も一層力が入っていた。
地味な弓道部でひとり走らされている自分と雲泥の差である。
それが余計に惨めだった。

しばらくしてようやく中村は五周走り終えた。
汗を拭い弓道場へと戻っていく。
その時だった。

「中村っ」

ふと名前を呼ばれた。
振り返れば伊瀬がこちらに向かって手を振っている。
さすがにこれほど目立つ格好では気付いたらしい。

「伊瀬……」

だが今は伊瀬の無邪気な顔が憎らしかった。
彼の中ではとっくになかったことになっている。
自分だけが後に引き、心を乱すほどに揺れていることが悔しかった。
独りよがりな孤独感がさらに煽る。

「…………」

だから上手く反応が出来なかった。
中村は振り返ったがどうすることも出来ずに駆け出してしまう。
結果、伊瀬を無視するような態度を取ってしまった。
胸の奥には後味の悪さだけが残る。
(最低だ。オレっ――)
だけど、どうしたらいいのか分からないのだから仕方がない。
元々感情を言葉にするのは苦手だった。
自分の気持ちを見つけるのも下手くそだった。
だから流されやすいし、自分の中で「これだ!」という気持ちを持てない。
唯一、自分を表す弓道すら、伊瀬が褒めてくれたからという理由でここまで続けてこれた。
そんな時、自分の存在を揺るがすような事件が起こったのだから、困惑するのも無理はない。
別に伊瀬が告白されたことを気にしているわけではない。
ただ打ち明けてくれなかったことがショックだったのだ。
どんな“秘密”も共有してきたからそう思うのかもしれない。

結局その日の部活は散々だった。
あれから弓道場に戻っても上手くいくはずはない。
むしろ伊瀬を無視してしまったという罪悪感から中村はさらに落ち込んでいた。
だがそれでも中村は帰らなかった。
こんな時だからこそ何かに打ち込んでいたかったのかもしれない。
今帰れば部屋に引き篭もって延々悩んでしまうだろう。
それを本人も分かっていたから最後までいた。
それどころかその後の弓道場の掃除まで買って出た。

「はぁ……」

先輩や先生のいなくなった弓道場は静かである。
中村はひとり床の雑巾がけをしていた。
袴を捲り上げて隅から隅まで駆け抜ける。
人がいなくなった道場は厳かな雰囲気を漂わせていた。
相変わらずピンと糸の張った緊張感が辺りを支配している。
年数の経った床は踏むたびに軋んだ。
裸足のせいか足の裏が冷たくて気持ちいい。
中村は掃除を終えてから自分の弓を取った。
そして射位に立ってみる。
そこに立てば、もう的のことしか頭にないはずだった。

ほんの僅かな雑念が手元を狂わせる。
弓は不思議だ。
少しの誤差で結果が大きく違ってくる。
まるで自分自身を見透かされているようだった。
目を瞑れば無に還らなくてはならない。
だが今日はどうしても伊瀬のことが頭から離れなかった。
明らかに集中力の欠けた矢は中心から逸れる。
結果、ギリギリ的の端に刺さった。
それでも今日の部活を思えばいいほうだ。
何せ的に掠りもしなかったのだから。

「珍しい」
「えっ」

すると中村の心臓がひと際ドクンと鳴った。
振り返れば苦笑した伊瀬がそこにいる。
ジャージ姿の彼がそこから中村を見ていた。

「何?調子悪いのか?」
「…………」

その口調は明るい。
だから中村は唇を噛んだ。
(伊瀬のやつ、オレが無視したことに気付いている筈なのに)
それぐらい分かりやすい行為だった。
何せあの時中村は伊瀬と目が合っている。
いまさら「呼ばれたことに気付かなかった」なんて言い訳が通じるはずがなかった。

「…………」

だからひたすら黙り続けた。
なにより伊瀬を理解出来なかった。
無視された相手にのこのこ会いにいけるほど強くない。
どうしたらそんなことが出来るのか不思議に思うほどだった。
(どうしてそれを聞かないんだ?なんで平然としていられるんだ?)
頭の中を疑問だけが通り抜けていく。
伊瀬と中村は正反対の性格だった。
だけど伊瀬は実直で分かりやすい性格だったから理解できた。
苛められていたら助けるし、楽しければ大騒ぎをする。
彼は気持ちと行動が直線で結べるような男であった。
しかし時折、どうしても理解できないことをする。
そんな時はいつも伊瀬だから、と流していた。
伊瀬は凄い人だから自分の考えが及ばないことをするのだと無理やり納得していたのだ。

「ほら、早く着替えてこいよ」
「…………」
「待っているから一緒に帰ろうぜ」

伊瀬はニコッと笑い中村を促す。

「…………」

だが中村はそこから動かなかった。
下を向いたままじっとしている。

「中村?」
「…………」
「何しているんだよ。早く帰ろうぜ。俺腹減った」

伊瀬はそういって奥まで入って来た。
それでも中村は動かない。
彼は自分の手を握り締めると僅かに首を振った。
それは一緒に帰らないという意思表示の現われだった。

「中村?」

彼がこうして自分の気持ちを露にするのは珍しいことだった。
多少嫌なことであっても流される彼が頑なに動かない。
小さく首を振る程度だったが、それは大きな意味を持っていた。
中村は緊張して異常なほど手のひらを湿らせている。
いつもの中村を知っている人からみれば驚くべきことだった。

「え……?」

それは伊瀬も同じだった。
予想外の反応に思わずたじろぐ。
じっと下を向いた中村の体は強張って震えていた。
静まり返った弓道場が波を打つ。
一番外れにあるせいか外の声も聞こえなかった。
耳が痛いほどの静寂を保ち、延々と続いていく。
外はもう日が沈み薄暗くなっていた。
秋分の日を過ぎてから見る見るうちに日が短くなっていたのである。

「な…んだよ……」

それでも伊瀬はめげなかった。
そこまでされたら黙って立ち去りたいところだが、何かが彼を立ち止まらせた。
室内に声が響く。

「急にどうしたんだよっ」

彼は中村の両肩を掴んだ。
そして顔を見ようと目線を合わせる。
それでも中村はこちらを見ようとせず下を向いていた。
なぜ泣きそうなのか分からない。

「なんか俺に文句があれば言えよっ。無視をしたり、黙り込んだり……っ」
「……っぅ……」
「俺たち……友達、なんだろ?」
「!」

中村は友達という部分に反応して顔を上げた。
そこだけ声色が違って聞こえたからだ。

「……っ」

すると伊瀬はまた切なそうな顔をする。
(どうしてそんな顔するんだよ)
胸の奥を鋭利な刃物で傷つけられたような痛みが走る。
それと同時にもどかしくて歯痒い気持ちになった。
なんでこんな顔をさせてしまうのか。
どうしてこんな顔で自分を見るのか。

「だっ……て、だってっ」

友達という響きは中村にとっては特別だった。
それは嬉しい響き。
くすぐったい響き。
自分が思うだけでなく、相手からもそう思われていたら、幸せなことだった。
(じゃあなぜ傷つくんだ?)
そうだ。
こんなにも胸が痛いのは伊瀬の顔に傷の痛みを感じるからだ。
伊瀬は傷ついている。
その痛みが伝わってくるから自分の胸も痛くなるのだ。

「友達っなのに……告白はっ、秘密で…っオレっ…」

頭の中がぐちゃぐちゃで取り留めない言葉しか出てこなかった。
感情が先にいきすぎて言葉がついていかない。
それが余計に苦しくて歯痒かった。
言いたいことのそのままが伝われば、もっとずっと楽になれるのに上手くいかない。
なぜ言葉なんて難しいものがあるのかもどかしかった。
伝えたいことだらけで溢れかえってしまう。

「中村、中村……」
「うぅっ…伊瀬っ、ひっぅ…いせ…っ伊瀬…っ…」

泣き虫なのは昔からのことだ。
そんな自分が大嫌いなのに勝手に涙が零れ落ちる。
きっと思うように伝えられないから泣いてしまうのだ。
それでは赤子と同じである。
だから泣きたくなかったし、ちゃんと言いたかった。
(女々しい男なんて嫌だ。格好悪い)
ぐっと堪えようと必死に我慢する。
それでも喉の奥から嗚咽が漏れてしまった。
情けなくて歯が震える。
そういう時はいつも伊瀬が頭を撫でてくれた。
「大丈夫、大丈夫」と、あやす様に笑ってくれる。
だから中村は安堵して目元を拭うのだ。

「ごめん」

だけど今日はいつもの様に大丈夫だと言ってくれなかった。
頭を撫でる手は優しいのに声はずっと暗く低かった。

「その秘密は共有出来なかったんだ」
「ひっぅ……な、んでっ」
「友達だから」

(なんで?友達だから秘密を共有しようって)
中村は涙を堪えて伊瀬を見上げた。
彼の言葉は理不尽であったからだ。

「だって、最初に…っ、友達だからって…言ったのは伊瀬なのに」

そう。
始めに友達だから秘密を共有しようと言ってきたのは伊瀬の方だった。
だからこそ中村はそこに拘っていた。
あれは去年の秋。
ちょうど今頃の季節だ。
紅葉の日光へと修学旅行に来た二人はもちろん同じ部屋だった。
他に四人と一緒の六人部屋。
伊瀬と中村は布団も隣同士だった。
それはみんなが寝静まった深夜。
昼間の興奮が冷めない中村は眠れなかった。
みんな朝まで起きていようと約束したのに、次々と裏切られる。
彼らはみな、さっさと心地良い夢の世界へと旅立っていった。
だが伊瀬だけは違う。

「眠れないのか?」
「うん」

明かりの消えた室内は薄暗い。
豆電球の僅かな明かりは頼りなく、二人の顔を照らした。
もぞもぞと伊瀬が自分の布団に入ってくる。

「秘密」
「え?」
「友達だから、絶対に他の奴らには内緒な?」
「い、伊瀬っ…」

そうして伊瀬は中村の下半身に触れた。
戸惑う中村を尻目にそっと体を重ねる。

「大人はみんなやっているらしいよ」
「そな…」
「でも子供には秘密なんだって」
「ん、はぁっ……」
「好きな人同士でやるって本に書いてあったんだ」

伊瀬はそういうとニコッと笑った。
布団の中で重なり合った下半身を擦り付ける。
その度に胸を突くような刺激が走って変な声が出た。
だから中村は手で覆うと噛み殺す。

「伊瀬…伊瀬っ…」

初めて伊瀬が理解できない行動に走ったのはこの時のことだ。
何も知らない中村はただ彼に流される。
(伊瀬は自分よりたくさんのことを知っている)
だから簡単に体を許したのかもしれない。
何より、友達、内緒、好きな人、という言葉が胸に響いた。
幼い頃はなぜか秘密を作りたがるものである。
例えば秘密基地を作ったり、みんなで内緒事を決めたり。
そうすると自分が少しだけ大人になったような気がした。
大人たちには内緒の優越感。
それは子供にとっては至極面白い遊びのひとつだった。

「いいよ、伊瀬。……秘密だからね」
「うん。俺と中村の秘密」

そうして朝方まで抱き合ったまま下半身を擦り合った。
気持ちよくて恥ずかしい思い出。
暗がりの布団の中でお互い息を乱して擦り合わせた。
その時の伊瀬はいつもと違って変な感じがした。
抱き締められた体は熱くて重い。
それだけでなく互いの体を触りっこした感触は忘れられない。
とはいえ、そうした行為はあの一夜だけだったから、その後二人はこの話をしなかった。
きっと恥じらいと戸惑いがあったからに違いない。
勢いでしてしまったが、今考えると途方もなく恥ずかしかった。
だから文字通り、この件は秘密になったのだ。
それを共有する二人は今も強くこのことを覚えている。

それなのに、今度は「友達だから」という理由で突き放された。
中村にとっては実に理不尽な話だったのだろう。
それこそあんな恥ずかしいことをやってしまった後に、いまさら言えないことなんてないはずだ。

「違うよ。ごめん、泣かないで」

伊瀬はジャージの袖で何度も涙を拭ってくれた。
それでも止まらず彼を困らせてしまう。
(困らせたいわけじゃないのに)
中村は彼を困らせることを一番嫌っていた。
こんな自分を引っ張ってくれるのだからせめて重荷にはなりたくない。

「ひっぅ…オレの方こそっ、ふ…ごめん。泣いたりしてっ…ひっく」

だから一生懸命、袖で拭った。
みっともない自分が恥ずかしくて気まずい。
ちゃんと話したいのに、これではずるいと思った。
伊瀬が涙に弱いのを分かっていて泣いているような気がして苛立つ。
だからいつまで経っても幼稚なのだと呆れた。
ずっと伊瀬に甘えているわけにはいかないというのに。

「本当にごめんっ…こんなはずじゃなかったのに、ひっぅ…オレ、勝手に卑屈になって…っ」
「中村」
「もうそういうのやめるから、本当にすぐ止めるからっ……っぅ……」

そうして顔を背ける。
早く止まって欲しいのに、そういう時だけ涙は止まらなかった。
渇いた皮膚にまたひと雫流れる。
だから隠すように手で覆った。
どうにかしてこの場を取り繕いたくて苦笑してしまう。

「あはは、おかしいな。べつに泣きたいわけじゃないのにっ」
「……うよ……」
「なんかぐちゃぐちゃだっ…おれっ……」
「……っぅ……違うよ」
「泣いている場合じゃないのに」
「だから違うってばっ――!」

するとその時だった。
顔を歪ませた伊瀬がぐいっと腕を掴み引き寄せる。
つんのめった中村は引っ張られるまま伊瀬の胸元に飛び込んだ。

「わっ――」

気付けば伊瀬に抱き締められている。
驚いた彼はその拍子に、あれだけ苦戦していた涙を止めた。

「好きなんだ」
「えっ」

すると伊瀬の心痛な声が聞こえる。
(好き……?)
中村は思わず反芻していた。
一瞬頭が真っ白になる。
だけど伊瀬の匂いに気付いて我に返った。

「い……せ……?」

昔から一緒にいた中村にとって、伊瀬の汗は懐かしい匂いだった。
知らぬ間に慣れた匂いは思い出と共に強く心に残る。
だから嗅いでいるだけでホッとしてしまうのは、条件反射のようなものだった。

「中村は何も悪くないんだ。俺がお前を好きだから、だから言えなかっただけなんだ」

回した腕がさらにきつくなる。
伊瀬の声はどこか追い詰められたような悲惨さを含んでいた。
どうしてそんなにも辛そうに話すのか分からない。
中村はただ戸惑うばかりだった。
それがなおさら伊瀬の気持ちに影を落とす。

「ごめん」
「どうして謝るんだ?」
「気持ち悪いことだから」
「伊瀬?」

抱かれた体を離そうともがくがびくともしない。
その度に伊瀬の腕に力が入って逃がそうとはしなかった。
不自然な体勢に軋んだ床が鈍い音を放つ。
物音ひとつしない室内はここだけ時間が止まっているようだった。

「気持ち悪くなんかないよ。オレも伊瀬が好きだよ?」

珍しく黙り込んだ伊瀬に不安は募る。
だから窺うようにそう呟いた。
波を打ったように静まり返る室内が気持ち悪い。
すると同時に肩を掴まれた。
そして引き離されると彼の顔をじっと見つめる。

「……そうじゃないんだよ」
「え?」

なぜか伊瀬は傷ついた顔をしていた。
困ったように眉を下げ笑っている。
それはいつもの伊瀬では決して見られない顔だった。
思わず中村は言葉に詰まってしまう。
幼馴染のこんな顔は初めて見たからだ。

「そうじゃないんだ。俺と中村の気持ちには決定的に違うところがある」
「え」
「俺は友達以上の好きだから。斉藤が俺を好きなのと同じ好きだから」
「…………」
「いや、きっと斉藤よりずっと生々しくて気持ち悪いものだと思う」

伊瀬は自嘲気味に笑うと一歩後ろに下がった。
まるで恐れているかのように手を離す。
その手は震えていた。

 

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