7

「せ、先生っ!先生っ」

それからどれぐらいそこに立ち尽くしていたのだろう。
次に我に返ったのは物凄い勢いで入って来た徳田さんの声であった。
声だけで慌てているのが分かる。
彼はそれほど切迫した状況で飛び込んできた。

「先生っ先生っ」
「………あ…」
「大変じゃ先生!――――って、先生?」

すると徳田さんは私を見るなり首を傾げた。
よほど私の様子がおかしかったのか眉間に皺を寄せて近付いてくる。
その視線が今の自分には痛くて思わず顔を背けてしまった。
本来なら彼にも会いたくない。

「どうしたんです?昼間っから騒々しい」

だから呆れたようにため息を吐くと何事もなかったような顔で居間に上がろうとした。
するとそれを徳田さんが止める。
驚いて振り返ると彼が私の腕を掴んで怪訝そうに見ていた。

「どうしたとはこちらが申したいぐらいだ」
「え?」
「先生。今何時だと思っている?」
「何時って――」

私は思わず外を見回した。
気付けばどっぷり日が暮れて玄関の外は闇が支配している。
曇りとはいえ先程までは明るかった。
その違いにようやく気付くと言葉を失う。

「もう五ツ半だ。とっくに日は暮れ皆寝静まっているだろう」
「あっ――」
「先生こそ珍しい。こんなに天気が悪いというのに引き戸を開けっ放しとは」

勝手に入って来たのは徳田さんの方なのに私を可笑しな目で見ていた。
というよりその状態に気付き見定めるように観察していると言ってもいいだろう。

「べ、別に暑かったから開けていたまでのことです。大体徳田さんには関係ないことでしょう」

私は変に勘ぐられることを恐れて彼を突っぱねた。
居間に上がろうとしていたのをやめて樽の水を汲もうとする。
だが徳田さんは私の腕を離さなかった。

「先生どうした?この傷は?」

それどころか手首を掴んだまま見せるように持ち上げた。

「掌が傷ついているぞ」
「あっ」

すると見せられた私の手のひらはところどころ赤く血が出ていた。
引っ掻いたような傷が僅かに染みて顔を歪める。
いつの間に、と言いたいところだがその傷跡に思い当たる節があって困惑した。
(まさかずっと掌を握り締めていたから?)
手のひらの傷は握り締めた爪が皮膚に食い込んで出来た傷であった。
どれほど力を込めていたのか。
また、どれほど長い間そうしていたのか分からなかった。
今が五ツ半だとすればあれから数時間経過していたことになる。
その間の記憶は薄くいつ日が暮れたのかすら気付かなかった。
(それほど私は――)
考えるのも嫌な話である。
またその異変を徳田さんに気付かれてはならないと思った。
だから強引に手を振り払うと強気に出る。

「私のことはいいんです」
「だが先生」
「それよりこんな夜更けに何のようですか?ずいぶん慌てていたようですが」
「あ――!!」

すると本来の用事を思い出したのか徳田さんの顔は見る見る青ざめていった。
見開いた目にはもう私の事など眼中にない。

「そ、そ、そうじゃ大変じゃ!」

一ヶ月彼と過ごして気付いたのは、取り乱したときの口調である。
そういう時は思わず方言が出てしまうのか藤千代様と同じ口調になるのだった。
そしてそれはあまり良い予感がしないということ。

「藤千代様が帰ってこんのじゃっ。せ、せ、拙者が少し目を離した隙に居なくなってしもうた!」
「!」
「すぐ帰ってくるだろうと待っていたが一向に帰ってこん。だから村中探し回っていたのだが」
「まさか今までずっと探して?」
「あ、あ、当たり前じゃ!」

すると青ざめていた顔が興奮して一気に赤くなる。
私はそれを宥めながら彼に落ち着くよう指示した。
だが大切な世継ぎが行方不明となれば家臣として気が気じゃないだろう。
今も落ち着けと言い聞かせているが頭を抱えて取り乱していた。

「せ、先生のとこにはこなかったか?」
「……っ……」

すると痛い一言を問いかけられた。
だから思わず声を失うと黙り込んでしまう。
(藤千代が来たのはまだ昼間だった)

「あああ、どうしたら……っ」

私は慌てている彼を尻目にいまさら自責の念に駆られていた。
他に言いようはなかったのか。
もしくは藤千代様を家まで送っていけばこんな事にはならなかったのでは。
人間とは愚かなもので馬鹿馬鹿しい後悔だけが頭を廻る。
今更そんな事を考えても何の役に立たないと知っていながら自らの過ちに気がいってしまうのだ。

「と、とにかくもう一度村を探してみましょう」

私は自らの罪を逃れるように徳田さんを励ました。
昼間藤千代様と話してから結構な時が過ぎている。
今の時間まで徳田さんが探しても居ないとなると見つけるのは困難だ。
だけどこのままじっとしていられない。

「だがっ」
「大丈夫です。村人達にも声を掛けましょう。総出で探せばきっと見つかります」

私は彼を元気付けるように明るい声色で話し続けた。
内心動揺と罪悪感に苛まれて酷い状態なのに微塵にも感じさせなかった。
今ここで大人二人が取り乱していたらどうしようもない。
そういう部分での割り切りが出来ていた。
(とにかく藤千代を見つけて話はそれからだ)
一刻を争うこの状況では自分の気持ちなど後回しである。
今はただ藤千代様の無事だけを願っていた。

「駄目だ」
「――――え?」

だが肝心の徳田さんは思いつめたような顔で首を横に振った。
まさか彼から否定されるとは思わず用意途中で止まってしまう。

「駄目って何が?」
「村人には声を掛けてはならん。拙者と先生で探す」
「なぜ?」

小さな村とはいえ、林や山に囲まれていて到底二人では探しきれない。
最悪村人全員で山狩りをしようかとすら考えていたところで思わぬ水を差された。

「いいから」
「いいからって…。いいわけないじゃないですかっ。探す人は多いに越した事はありません。だから貴方も私に助けを求めてきたのでしょう?」

むしろ喜んでくれると思っていたのに彼の態度に困惑する。
それでも徳田さんは頷こうとしなかった。
それどころか立ち上がると長屋を出て行こうとする。

「ならもういい。藤千代様は拙者一人で探す」
「そんな――」
「夜更けにすまん。先生」

彼の決意は堅かった。
どんなに私が言いくるめようとしても話を聞いてくれない。
ここに来た時は動揺して目も当てられなかったのに今は思いつめたように一点だけを見つめていた。
その意志の強さには敵わない。
本当は色々言いたいこともあったが私は口を噤んだ。
そして棚から二つの提灯を取り出す。

「……貴方も本当に頑固者です」
「先生?」
「とにかく二人で探して見ましょう」

私は彼らを見捨てられない。
明らかに無理があるとはいえ私は徳田さんに従うことにした。
ここにいても藤千代様は帰ってこない。
やきもきしながら一夜を過ごす位なら闇の中を歩き回っていた方がいい。

「感謝する」

すると徳田さんは安堵の表情を浮かべた。
さすがの彼も自分だけでは無理と承知だったのだろう。
まだ来て間もない村を一人で探すこと自体無茶な話だ。
それでも何時間と探し続けたのだから凄い男だと思う。

「じゃあ行きましょう」
「ああ」

私と徳田さんは北と南に別れて探す事にした。
長屋を出ると二手に分かれる。
徳田さんは長屋を出るなり走って闇へと消えていった。
提灯の明かりだけが徐々に遠くなっていく。
私はその後姿を見つめ自分自身も駆け出した。
村の人口は少ない。
だがどの家も農家であった為畑が多く広々としていた。
本来なら月明かりに照らされるところ、今日はそれも望めない。
うねるような流れる雲の音が頭上に響き渡っていた。
今日は雨が降ったり止んだりを繰り返しているのか足元はあまり良い状態ではない。
提灯の明かりは実に儚く拙かった。
あとに広がるのは大海原のような暗闇である。
私はとにかく足元に注意した。
どこに溝があるのか全く分からない。
ほんの少し先はもう何も見えなくて危険極まりなかった。
足元の状態を考えると最悪である。

「藤千代…藤千代っ」

私は村人達を起こさない程度に彼の名を呼んだ。
畑の間や林を見て回る。
さすがに山の中に入るのは躊躇われた。
ただでさえ危険な山を闇雲に探しても自分が遭難するだけである。
生い茂った木々は簡単に人を惑わせた。
一段と濃い闇に背筋が寒くなる。
(まさか藤千代は入っていないよな)
山といえども四方に囲まれている。
数日前に彼と登った山のようになだらかで比較的危なくない山もあれば急斜面が続くような危険な山もある。
中には山道を外れただけで迷い込んでしまう森のような山もあった。
そういう山で捜索する時は村人達全員で早朝に山狩りを始めるものである。
一人で、ましてや夜に山に入るのは命を落とすも同然であった。
もちろんそれぐらい徳田さんだって心得ているだろう。
だが山以外は見て回った。
もう探すところは限られてくる。
畑や蔵、民家にも居ないところを見るに後はどこを探せばいいのか分からなかった。
湿った嫌な風を受けながら畑の真ん中で立ち尽くす。
妙な胸騒ぎを覚えながら途方に暮れた。
彼の身に何かあったのではないかと不安になる。
風に揺れる提灯の火は弱くすぐにでも消えてしまいそうだった。
寒々とした夜の闇に一人取り残されたような孤独感が襲う。
大人ですらそう感じるのに、藤千代様の歳ならどれほど心細いのだろう。
それを思うだけで胸が締め付けられ苦しくなった。
記憶の奥にいる彼はいつも強気で涙を汗と言ってしまう健気さを持っている。
初めて会った時は凄い目で睨まれた。
後からあれは緊張のせいだと知った時、私は腹を抱えて笑った。
どんな時も真っ直ぐで素直な少年は不器用だけど愛しかった。

「あれ…………?」

するとふいに雫が顔に落ちてきた。
その冷たさに思わず空を見上げると厚い雲から落ちて来た水滴が私の額に垂れる。
最初は二、三滴だったのだが、急にポツポツと雨が降り始めた。
(まずい)
私は提灯を手で隠すように押さえて駆け出す。
ただでさえ悪条件が揃っているのに、雨まで降り出すとはついていない。
とにかく一度徳田さんと合流しなければならないと思った。
このまま雨の中を探していても時間の無駄である。
やはり村人達に協力してもらうのが手っ取り早かった。
だからもう一度彼にそれを伝えようと思ったのだ。

「徳田さん」
「あ、先生!」

すると先に徳田さんが長屋の前で待っていた。
どうやら彼も雨が降った事により一度合流した方が良いと思ったのだろう。
私を見つけると軽く手をあげる。
そして困ったように首を横に振った。
つまり藤千代様は見つからなかったという事だろう。
私も合わせて首を振った。

「はぁ」

二人して深いため息を吐く。
その間に見る見る雨は強くなって地面を濡らした。
私達は一旦長屋に入ると雨脚の強さに頭を抱える。

「徳田さん」
「ふむ」
「やはり村人達に協力してもらいませんか」
「…………」
「大丈夫ですよ。皆とっても優しいですから夜が更けても助けてくれます。特に徳田さんは皆さんに慕われていますし」
「駄目だ」

それでも徳田さんは頑なに拒絶した。
口をへの字に曲げて話を聞こうともしない。
その態度にこちらが苛立って思わず立ち上がった。

「徳田さんは藤千代が大切ではないのですかっ」

だから怒鳴ってしまう。
疲れに雨の憂鬱が入り混じって気が短くなっていた。
普段なら冷静に話し合おうとするところ喧嘩口調になってしまう。

「大切だ。藤千代様は何にも代えられない御方である」
「ならっ…なぜ!」
「大事になっては困るのじゃっ!!」
「え?」

すると徳田さんも我慢の限界だったのか立ち上がると私を睨みつけた。
だが私に対して怒っているのではなく自分自身に苛立っているようだった。
こうして二人並ぶと彼の大きさが良く分かる。
同じ男なのだが縦も横も大きくどっしりしていた。
キツイ眉毛に皺が寄せられ唇を噛み締めている。

「拙者だってどうにかしたいっ。どうにかしたいんじゃっ!」

それでもどうしようもないといわんばかりにぐっと堪えた。
その顔は悲痛そのもので私の怒りも冷めていく。
頭を抱えた彼は自分でもどうしたらいいのか分からないようだった。

「変ですよ。なんか変です」
「…………」

私は徳田さんの顔を見上げた。
必死に冷静になろうと二人してもがいている。
(そういえばずっとおかしいと思っていた)
徳田さんはどこか隠そうとする節があった。
畑で藤千代様のことを聞いた時もそうだ。
あの時はあえて深く探ろうとしなかったからそのままにしていたが、よくよく考えれば変な話である。
藤千代様が外遊見物などという旅に出たこと。
そのくせこんな田舎にやってきたこと。
そしてお付きが徳田さんただ一人であること。
他にも沢山納得しきれない部分があった。
ひとつひとつ問い詰めたいが今はそんなことをしている場合ではない。

「徳田さん、私に隠していることありますよね」
「!!」

だから一点だけに集中することにした。
すると元から素直な性分なのか徳田さんは明らかに何かあるといった顔で私を見た。
だがすぐに目を逸らされる。

「私は信用に値しない人間でしょうか?」
「ち、ちがっ――」

すると私の意地悪な問いかけに慌てて彼は否定した。
そしてもう逃れられないことを悟ると小さくため息を吐く。
その間に雨は激しさを増した。

「……先生だから話す。先生を信頼しているから」
「…………」

彼は辺りをそわそわと見回しながらポツリと呟いた。
それをじっと見つめ彼の話を真剣に聞く。
少しでも聞き逃さないように息を呑んで見守った。

「本当は外遊見物ではない」

すると徳田さんは周りに聞こえないように小さな声で話し始めた。
彼ら二人がここに来た経緯を。

「実は――」

――それから私は徳田さんの話を聞き続けた。
彼の話によると藤千代様の国では情勢が不安定になっているらしい。
財政悪化に伴い、家臣の中にも不穏な動きを見せる輩がいたそうだ。

「恩知らずの謀反を企てようとしている者が居たのじゃ」

それも一人や二人ではなかったそうだ。
真っ先に狙われたのは正室の子であり世継ぎの藤千代様。
だが表立って騒ぎになれば益々情勢は悪化する。
そこで藤千代様の父上であり一国の大名は藤千代様を旅に出すという名目で息子を国から避難させることにした。
もちろん側近以外誰にも知られずひっそりと抜け出して来たらしい。
その為お付きは徳田さんただ一人なのだ。
なるべく目立たないように。
そして見つからないように。
だから自分の国には帰れないのだそうだ。
ある程度落ち着くまで姿を見せるなという殿直々の命令である。

「相手は浪人や盗賊、山賊と手を組んでいるかもしれない。誰が敵で誰が味方か分からんのじゃ」
「…………」
「だから街道を避けてなるべく人目に付かない田舎の山道を選び歩いてきた。このままこの山を越え出羽の本荘藩まで行けばどうにかなる」
「どうにかとは?」
「殿と古くから親交のある六郷殿が匿ってくれるそうだ」
「なるほど」

私は腕を組んで頷いた。
今まで疑問に思っていた事が一本の線に繋がる。

「でも藤千代はこの事をご存知で?」
「いや、深くは知らん。自分の命が狙われているなど思いもしないだろう」
「そうですか」
「それで良いのじゃ」

そう言う徳田さんの眼差しは厳しくも暖かかった。
どれほど藤千代様を想っているのか一目で分かる。
彼はきっと余計に辛い思いをさせたくない一心で黙っているのだろう。
その分自分に掛かる負担だって増えるはずなのに何もかも了承した上での行動だった。
家臣の深い忠誠心には頭が下がる。
いや、これはきっと徳田さんと藤千代様だから得られた関係なのかもしれない。
そしてそんな彼だからこそ殿は徳田さんを信頼し重要な任を与えたのだ。

「なら迂闊な行動は取れませんね」

ありえないとは思うが二人を追って使者が送り込まれた可能性もある。
もしかしたら村に潜伏している可能性だってある。
ここら辺に山賊が出たことはなかった。
だがこれだけの自然に囲まれていればどこに居ても気付けないだろう。
それなら騒がしくしないに越した事はない。
最悪藤千代様が捕まっている可能性も考えたが、今この状況で絶望的な事を考えても仕方がない為気にしないようにした。
今はとにかく彼の無事を願うだけである。

「あ――」

すると考え込む徳田さんを尻目に私は素っ頓狂な声を上げた。
それに驚いた彼が何事かと瞬きする。
(まさか)
だが私はその視線にも気付かず一心に考え込んでいた。
(中腹にあったお堂)
一旦冷静になって考えてみるとひとつの場所が思い浮かんだ。
それは私と藤千代様で登った山の中腹にあった土地神様のお堂である。
これだけ探して村に居ないとすれば他を探すしかない。
そんな時あのお堂を思い出したのだ。

次のページ