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だがもちろん確証はない。
山に迷い込んだ可能性だって捨てきれない。
それでも頭の隅からあのお堂が離れなかった。
だから私は顎に手を当ててじっと考え続ける。

「な、なんだ?」

その横では首をかしげた徳田さんが怪訝そうに見ていた。

「ひとつ思い当たる場所があるんです」

私はようやく顔を上げるとゆっくり彼の方に振り返る。
すると徳田さんは目を見開いて私の肩を掴んだ。

「な、なっどこじゃ!それはどこじゃ!!」
「いや…でも確証は持てな…」
「いいから早う申せっ」

どうやら私のひらめきに全てを託したらしく徳田さんは肩を掴んで激しく揺らした。
これでは話す事もままならない。
私はとにかく興奮しきった徳田さんを宥めるので精一杯だった。
いい加減、冷静になって欲しいのだが当分無理だろう。

「あのっこないだ藤千代と行った山の中腹に小さなお堂があって」
「ふむ、そこかっ。ならいますぐ――」
「ちょっちょっと待ってください」

思い立ったらすぐ行動派なのか徳田さんは勢いよく立ち上がった。
そして急いで出発しようとする。
それを私は腕を掴んで止めた。

「なぜだ!早く行かねば」
「駄目です。徳田さんが行くのは危険です」
「なんだとっ」

私の言葉に彼の眉毛がぐっと上がる。
まるで気負いすぎた馬のようだ。
今すぐ暴れだしそうな彼を必死に止める。

「山歩きに慣れていない徳田さんは危ないです。こんな雨風では提灯だって使えないんですから」
「なら私と先生で――」
「それに絶対にいると確証が持てない今、二人揃ってお堂に向かうのは浅はかではありませんか」
「うぐ」

実際に藤千代様が居なかった時、二人とも無駄足になってしまう。
参道が作られているとはいえ、登った事のない徳田さんには厳しい道のりだ。
わざわざ危険を冒す必要はない。
何よりこういう時は別行動しないと効率よく動けないだろう。

「私が行きます」
「先生」
「徳田さんは無理のない範囲で村の捜索を続けてください」
「だがっ」
「それでも見つからなければ家で待っていて下さい」
「そんな事出来るか!」

すると徳田さんは私に怒鳴り散らした。
確かに彼が怒るのも無理ない話である。
家臣の自分が守らなければならないのに家で大人しくなんて出来ないだろう。

「貴方にはやるべき事があるでしょう。朝になれば藤千代を連れてまた旅立たねばならない」
「そ、それは……」
「今ここで徳田さんがどうにかなったら誰が藤千代を守るんです?」
「…………」
「大丈夫です。夜明けには彼を連れて戻ってきます。だから貴方は旅立つ用意をして待っていて下さい」

こうなれば一か八かの賭けであった。
だがこれ以上いい案は浮かばない。
ひとり待つことの辛さは私も知っている。
だがそういう時ほど耐えねばならなかった。
侍である徳田さんには尚の事酷な話であると思う。
だが本人もそれが尤も良い案だということを分かっていた。
だからそれ以上怒鳴ろうともせず眉間に皺を寄せたまま下を向いてしまう。

「なんて情けない顔をしているんです」
「だ、だが…せんせ……」

徳田さんは先程までの興奮しきった様子がなくなっていた。
しかしその代わりしょげて泣きそうな顔になっていた。
大きな図体をした男が背中を丸めて落ち込んでいる。
だから私はその背中を強く叩いた。

「いたっ」

それに反応して彼の背筋が伸びる。

「何度も言うようですが大丈夫です」
「…………」
「何せ私は貴方の信頼に足りる人間ですから」
「!!」

私はそういって心配させないように笑いかけた。
すると徳田さんは一瞬目を見開いて私を見る。
そして顔をくしゃくしゃにして笑うと一言「頼む」と頭を下げた。

とにかく私は彼の言葉に深く頷くと提灯を持たずに雨の中駆け出した。
降り始めの頃より凄まじい雨と風に目を開けていられないほどだった。
暗闇の中を自分の土地勘だけを頼りに走り続ける。
村を抜けて山の入り口まで。
夜の山は黒い塊のように圧倒的な存在感を放っていた。
白い石段が闇の中に浮かび上がるように続いている。
私は少しの恐怖心を呑み込むと走る速度を変えずに駆け上がった。
足元はもうぐちゃぐちゃで目も当てられない。
髪や着物も雨で濡れて動きづらかった。
泥に滑り、段差に躓きそうになりながらひたすら走り続ける。
思った以上に困難な道のりで心底徳田さんを巻き込まなくて良かったと思う自分が居た。
歩き慣れている私ですらこんなに大変なのだから彼なら途中でへばってしまうだろう。
こういう場所は自身の体力よりいかに慣れているかが重要である。

「おっと――」

すると考えていた矢先に思わぬ石に躓き転んでしまった。
まったくもって情けない話である。
無防備な状態で足を打った私は想像以上の痛みに顔を歪めた。
案外こういった傷の方が痛いのである。
しかも打った場所が弁慶の泣き所であったから辛い。
膝下の少し窪んだ場所はあまりに脆く私に痛みを知らしめた。

「っぅ」

声にならない痛みに唇を噛み締める。
その間に降り続く雨は容赦なく私を濡らしていた。
それを恨めしく思いながらまだまだ続く道の先を見つめる。
山の中は恐ろしいほど静まり返り生き物の気配がしなかった。
その闇に取り残されて途方もない程寂しくなる。
だけどその寂しさがそれだけに留まらないことを私は知っていた。
(どうか無事で居てくれ)
痛いのは打ち付けた足のはずなのに胸に鈍痛が走る。
無常な雨に晒されて私は空を見上げた。
厚い雲に広がる空は狭く窮屈である。
冷たい雫が次から次へと顔に落ちた。
それが頬に垂れ私の顔を濡らす。
しばらくの間目を瞑りその感触に浸っていた。

すると途端に思い浮かぶ少年に会いたくなる。
そしてあの無垢な笑顔が見たいと思った。
相手は私自身が傷つけたというのに。
(藤千代)
もしかしたら彼が受けた傷はこんなものじゃなかったのかもしれない。
私は藤千代様を想ってよろよろと立ち上がった。
そしてまた駆け出す。
今更欲したって手に入るはずなかった。
それを私は望まない。
だけどそれとは反対の感情が芽生えていた。
もう一度だけでいいから抱き締めたい。
一瞬でいいから自分のものにしてしまいたい。
ささやかな願いに痛む胸元を掴んだ。
(お堂に居て欲しい)
祈るような気持ちで私は前へと進む。
そうでなければ心が折れてしまいそうだった。
人は弱い。
暗闇の中を当てもなく走り続けるなど無理である。

「はぁ、はぁ……はぁっ」

するとしばらく走り続けた先にようやくお堂が見えて来た。
ここに来るまで何度か転んだせいかもう満身創痍である。
私はボロボロになりながらお堂の存在に心底安堵した。
だがそれも一瞬にして変わる。
(明かりが灯されていない)
ようやく見つけたお堂は暗く誰も居ないようだった。
近付けば近付く程私の脳裏に嫌な予感が浮かぶ。
夜の闇に溶けてしまいそうなお堂はただそこに鎮座していた。
薄気味悪いほどの静寂を纏い存在している。
私は吹き付ける雨と風に目を細めながら最悪の状況を想定した。
(お堂にも居ないとなるともう探す術はなくなる)
苦労して登ってきたのに結果はいつも簡潔に用意されていた。
ここに居なければ藤千代様の生存は厳しいものになる。

「私のせいだ」

私はお堂の前までやってくると崩れ落ちるように座り込んだ。
そばにある三体のお地蔵様が哀れむように私を見ている。
お堂は静かで中に人が居るようには見えなかった。
一気に力の抜けた私は虚ろ気に辺りを見回す。
叩き付ける雨さえ気にも留めず唇を噛み締めた。
(私がちゃんと向き合っていればこんな事にはならなかったかもしれない)
ここに来てまたもや後悔が渦巻いていた。
それと同時に失ったものの大きさを実感して胸元を掻き毟りたい衝動に駆られる。
すぐそばにあったのはこれ以上ないほど大切な物だったというのに上辺だけの感情に流されて私は知ろうとしなかった。
失って気付く間抜けさに思わず失笑が零れる。

カタッ――。

だがそんな私の耳に僅かな物音が聞こえた。
凄まじい風に草木は揺れお堂の軋む音がする。
しかし今聞こえたのはそれらとはまた違う音のような気がした。
(まさか――)
私は息を呑んで僅かな希望にすがり付こうとした。
失った力を奮い立たせるように立ち上がるとゆっくりお堂の側まで行く。
そして引き戸に手を添えると恐る恐る扉を開けた。

「!!」

お堂の中は真っ暗であった。
相変わらず正面には神棚に三方と松菊が供えられている。
だが私の視線は真っ先に違う方向を見ていた。

「すぅ……すぅ…」

お堂の隅には蹲るようにして一人の少年が寝息を立てていた。
荒れた外の状態など無関係だとでも言うかのように健やかな吐息が聞こえる。
だから私は信じられなくてその場に立ち尽くした。
思わず口を手で覆い、声が出てしまいそうなのを押さえる。

「ん……」
「ふじち……」

そこにいたのは紛れもなく藤千代様であった。
しかも格好から見るに雨が降る前にお堂へやってきたのだろう。
彼は全く濡れていなかった。
それどころか無防備な姿を晒して暢気に眠っている。

「……っぅ……」

どこから見ても無事な姿に思わず胸が震えた。
ようやく会えたことに言葉が詰まって声が掛けられなかった程だ。
そして何より見つけたことへの安堵が体中に広がり溶けていく。
私はいますぐにでも駆け寄って抱き締めたい衝動をぐっと抑えた。
その代わり握りすぎて傷つけた手のひらを見て深呼吸する。

まずはお堂の行灯に火を灯した。
浮かび上がる明かりは揺らめきおぼろげな私の影を映し出す。
それでも起きない藤千代様はぐっすり眠っていた。
照らされた彼の顔には僅かな涙の跡がある。
きっと私にあんな事を言われて帰るに帰れず一人ここで泣いていたのだろう。
もしかしたら徳田さんに涙を見せたくなかったのかもしれない。
もしくは心配させたくなかったのかもしれない。
どちらにせよこんなところで泣かせてしまった自分に深く反省した。
泣き疲れるほどの涙を与えてしまったことが悔やまれる。
だけどここでそんな風に考えていても意味はなかった。
だから私はここにやってきたのだ。

「こらっ!藤千代っ」

私は胸に燻る思いを押し退けて思いっきり怒鳴った。
その声は外の酷さに負けず劣らずお堂内に響き渡る。

「う、わああああっ」

すると私の声に驚いた藤千代様は飛び上がって起きた。
目を見開いて何が起こったのかも分からず辺りを見回す。

「え?え?な、なんじゃっ何が起こったっ」

一気に眠りから覚めた彼はただ目を丸くするだけであった。
その姿はあれだけ大騒ぎになっていたとも知らず間抜けな反応である。
私は彼を見て脱力しそうになったがどうにか耐えた。
口をきつく結んだまま草鞋を脱いでお堂に上がりこむ。
もちろん泥だらけのままだ。

「せ、先生?なんていう姿をしているんじゃ」

藤千代様はまず私の格好に驚いたみたいだ。
それも無理はないだろう。
何せ彼は外が土砂降りになっている事も知らないのだ。

「せん――っ」

パンッ!

私は藤千代様の前まで来ると目線を合わせるように座った。
そしてその頬を平手打ちする。
ただでさえ目覚めたばかりでよく分かっていない藤千代様は叩かれても無反応だった。
今頃きっと脳内では必死に状況を把握しようと努めているに違いない。
だがそんな事は関係なかった。

「徳田さんを心配させるんじゃありませんっ!」

私は震えそうな声を押し殺して藤千代様を怒鳴る。
ぐっと掴んだ肩は小さくて心もとなかった。

「今何時だと思っているんです!どれだけ徳田さんが心配しているか……」
「そ、それは」
「帰ったらちゃんと謝りなさい。頭を下げて心配させたことを詫びなさい!」

藤千代様の反応は未だにちゃんと理解できているか危うい。
それでも私は叱り続けた。
本来藤千代様は自分が狙われていることを知らない。
だからこそ無責任な行動が取れるのかもしれない。
それは仕方がないことだ。
もちろん徳田さんの気持ちを無碍には出来ない。
だから言いたかったことをぐっと堪えて藤千代様を睨む。
するとどうやら自分が拙いことをしてしまったのは理解できたのかしょんぼり肩を落として私の説教を聞いていた。
合間合間に「はい」と頷き眉毛を下げる。

「まったく」

この村に来た当初から考えればこうした態度も成長した証だった。
あれだけ横暴だった彼が素直に私の言うことを聞いている。
反省しているのか下を向いて落ち込んでいた。
その姿さえ愛しくて思わず掴んだ腕を引き寄せる。

「無事で良かった――」

私はそうして力の限り強く藤千代様を抱き締めた。
濡れた体じゃ彼に悪いと思ったがもう構わなかった。
むしろ濡れて冷たくなった体に染み渡るような熱が広がる。
(やっと会えた。本当に良かった)
それが藤千代様の体温だと気付くと尚更離したくない。
久しぶりの感触と彼の匂い。
むしろこうして触れていると三日間もの間会おうとしなかった自身の気持ちが信じられなかった。
走馬灯のように過ぎていく思い出は勿体無くて胸が苦しくなる。
それはまるで手から零れ落ちていく砂のように儚かった。

「せ、せんせ…?」

突然の事に戸惑い動揺を隠せない声がすぐ側から聞こえてくる。
それを無視してただ抱き締め続けた。
溢れるような想いが指先にまで伝わってくる。
(本当は手放すのさえ惜しい)
私はようやく実感した。
欠けていたものが満ちた幸福感に。
そして何にも代えがたいほどの愛しい存在に。

「く…苦しいぞ?どうしたんじゃ」

すると藤千代様は遠慮がちに私の着物を掴んでいた。
まだ怒っていると思っているのか彼は困惑した表情を見せる。
だから私は少しだけ体を離した。
彼の腰に手を回したままゆっくりと視線を合わせる。

「私は嘘を吐きました」
「え?」

藤千代様は私の顔を見て驚いていた。
きっと酷い顔をしているのだろう。
見なくてもそれが分かっていた。
それでも止められなくて構わず藤千代様を見下ろす。

「ごめんなさい、藤千代。私は貴方に謝らなければなりません」
「先生?」
「嫌いなんて嘘です。顔も見たくないなんて思っていません」
「!!」

思わず声が震えていた。
その珍しい姿に彼は驚きっぱなしである。
私だってこんな情けない姿は見せたくなかった。
まさか本気で子供を好きになるなど正気の沙汰とは思えない。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「せっ――」
「ごめんなさい…」

私はひたすら謝り続けた。
そう子供達に教えたように私も謝り続けた。

「ど、どうしてそんなに謝るんじゃ?」

すると藤千代様はただ困った顔をしていた。
事態は呑み込めても状況は把握できていない。
怒られたかと思えば謝られているのだから困惑するのも無理はない。
それでも謝り続けたのにはわけがあった。
ただ嘘を吐いていたことに詫びていたのではない。
幼い少年を愛し自らのものにしようとしている罪悪感に頭を上げられなかったのだ。
外の雨音がうるさい。
風によってざわめく木々がうるさい。
その中で私は剥き出しの本能に身を任せようとしていた。

「え……?」

藤千代様は戸惑うような声を出す。
だが構わず掴んでいた手に力を入れた。
そして強引に彼を押し倒す。
いきなり上体を倒された藤千代様は瞬きしながら私を見上げた。
何が起こっているか分からず首を傾げる。

すると背後で雷の音が聞こえた。
どうやら私が走ってきた時より天気が悪くなっている。
これはもう嵐のような荒れ具合であった。
(すみません。徳田さん)
私はぎゅっと目を瞑ると脳裏に映った彼にも詫びる。
本当は私が一番危険人物だったのかもしれない。

「せ…先生?」

それでも止められなかった。
いや、止めたくなかった。
去っていく藤千代様に対してこれから行う事は傷を抉る結果になるだろう。
それを承知の上で私は彼に傷を残したかった。
それが例え憐れな自己満足だったとしても。

「好きです」
「え?」
「私は藤千代が好きです」
「せっ――!え?んっ…」

私は躊躇いもせず彼に覆い被さるとその小さな唇に触れた。
くぐもった声を呑み込んでそっと口付ける。

「……せ、せんせい…」

顔を離せば藤千代様が顔を真っ赤にしていた。
目を丸くすると唇を手で覆う。

「よく聞いて下さい」

私は彼の顔の横に手を置いたまま至近距離で話し続けた。
吐息の触れる距離はもどかしくも甘い。

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