10

「嫌じゃ。嫌に決まっているだろうが」
「だったら大人しくしていなさい」
「それも嫌じゃ。大体先生はどういうつもりじゃ。先程まで目一杯触っていたというのに何で突然拒絶するんじゃ」
「それは貴方の為でしょうが」
「それが良く分からん。もっと分かりやすく説明しろっ」

彼はそういって指を差してきた。
だから頭を叩くと「人を指で差すんじゃありません」と怒る。
すると藤千代様は頬を膨らませて反抗的な目で見た。
結局最後までこんな調子なのだから仕方がない。

「じゃあ言わせてもらいます」

私は正座したままじっと彼を見つめた。
すると藤千代様は口をへの字に曲げながら腕を組む。

「言ったあとの苦情は聞き入れませんからね」
「くどい。早う申せ!」
「はいはい」

改めて口にしなければならない苦痛。
というより何で私がこんな事を言わなければならないのかとため息を吐いた。
なぜなら自分の思っていることが変態じみているのだと分かっていたからだ。
だから本気で藤千代様が嫌がっているなら朝までじっとしていてもいい。
私はそう考え直していた。
彼を押し倒すまでは何がなんでも自分の物にすると決めていたのに、実際に嫌がられたら気持ちが引けてしまう。
どこまでも小心者だからどうしようもないのだ。

「私は男です」
「私も男じゃ」
「はぁ…そうですね」

出鼻を挫かれて早くも心が折れそうになる。

「じゃあ言わせて頂きますけど、今あなたに触れられると困るんです」
「な、なんでじゃっ」
「尻の穴を弄り回して私の性器を入れたくなるからです」
「――!!」

すると藤千代様は目を見開いた。
むしろ何を言われたのか理解できていなかった。
私も私である。
たとえ話し下手だとしてもいきなり過ぎるだろう。
簡潔に話しすぎたせいで伝わっていなかった。
学問なら教える事に長けているのに自分の事になると苦手である。

「せ、先生は変態か……」

藤千代様は口を開けたまま小さく呟いた。
(いや、変態と言われると否定は出来ないのだが)
改めて好いている人間に言われると傷つくものである。

「あー、すみません。話を飛ばしすぎました」

私はがっくりと項垂れてもう一度ため息を吐く。
その間も藤千代様は固まったまま動かなかった。
どうやらあまりの驚きっぷりにまともな会話すら出来ないみたいだった。

「わ、私だって他の誰かなら嫌に決まっています」
「…………」
「本当に貴方を好いているから、私のものにしてしまいたいというか…その…っ」

子供相手に何を言っているのかと呆れる。
だがそれは紛れもなく私の本心だ。

「だから今藤千代に触れたら私の思考回路は飛んでしまうのです。本来なら余裕を見せたかったのですが私もこういう感情は久しぶりで抑えが利かないというか」
「…………」
「す、好きだから全てを征服したくなるんです」

私は自分で分かるほど顔が赤く熱くなっていた。
膝に置いた手を握り締める。
藤千代様がこういった感情に疎いことは分かっていた。
そんな人間に言っても意味はない。
だけど言わずにいられなかった。
燻る欲情は未だ体内に留まり溢れてしまいそうである。

「…………」

ちらっと彼を見ると脱がしっぱなしで裾がはだけていた。
側に帯が落ちている。
乱れた浴衣から見える胸元や太ももに目がいってしまうのは男の性だ。
それが行灯の揺らめきに妖しく浮かび上がり私を誘う。
思わず息を呑んでしまった私はその罪悪感から気付かれぬように目を逸らした。
そして軽く咳払いして誤魔化そうとする。
(やはり触れたい)
誰にも邪魔をされない密室に恋する人が居れば自ずとそうなるだろう。
しかも明日には居なくなってしまうのだ。
手のひらで触れた肌の感触は憎らしい程に焼き付いて離れない。
(――ってしっかりしなさい)
私は煩悩に振り回される自分を叱った。
だがどんなに年を取っても男は男である。
まだ枯れるほどではないし、今の自分は滾っていた。
それを紙一枚もの理性で押し込めようと必死で自我と戦う。

「…………せ、先生」

すると遠慮がちに藤千代様が私を呼んだ。
ぐちゃぐちゃな頭の中を覗かれた気がしてうろたえる。
だから私は返事も出来ずに背筋を伸ばした。
いつまでも歯痒い後ろめたさが心に引っかかる。

「……しょ、正直こういう事は分からんのじゃ」
「…………」
「まま、まさか先生が変態だと思わんかったし。い、いや変な性癖があっても私は…その…」

すると藤千代様は小さな声で呟いた。
下を向いて目を合わせようとしない。
先程までの威勢の良さは消えて弱々しく見えた。
(そんなに変態変態連呼しなくても)
一度ならず二度も三度も言われると頭を抱えたくなる。
実際にこれが特殊な性癖かなんて分からないものだ。
ただ男を好きになっただけであり、それは藤千代様も変わらない。
しかしそれを言うのも躊躇われた。
まるで言い訳しているみたいだったからだ。

「と、と、とにかく私はだな」

すると藤千代様は一生懸命言葉を繋いでいた。
握り締めた拳が震えている。
だから私は首を振った。

「藤千代。無理する必要はないのです」

そして優しく笑いかけようとする。
するとずっと下を向いていた彼が物凄い勢いで睨みつけてきた。

「いいから最後まで聞けっ。先生は相変わらず鈍い男じゃ」

そう言って私を黙らせる。

「わ、私の肛門を差し出せばいいのだな?」
「だから無理して……」
「無理ではない。そんなもんで先生を私のものに出来るのなら早い話じゃ!」

彼はそういうと構わず飛びついてきた。
その衝撃に正座が崩れて尻餅をつく。
だが藤千代様は首に手を回すと引っ付いて離れなかった。

「ずっと先生を好いてきたんじゃ。私の尻でどうにかなるなら、ひとつふたつ容易い。いくらでも差し出してやろうぞ」
「いや、さすがにひとつで十分なんですけど」
「ば、ばかものっ物の喩えじゃ!先生は変なところで呆けてるから困るのう。それぐらい先生が好きということじゃ」

そういって頬に擦りつく。
どうやらそこまでしても甘えたかったのだろう。
私はくすくすと笑ってしまった。
子供の彼にそこまで言わせてしまったのだから私もまだまだである。

「本当に良いのですね」
「む。男に二言はない!」

気張った顔が凛々しくも愛らしい。
私はそっとおでこに口付けた。

「…ありがとうございます」

少し力の抜けた藤千代様と笑みを交わす。
そして私は彼の下半身に手を這わした。
それから念入りに穴を解す。
彼は恥じらい必死に耐えながら私の愛撫を受け入れた。
太ももから尻を沿うようにねっとりと舌で舐める。
その間に指を増やして中を拡張した。
彼の尻はほんのり桜色に染まり猥らに腰を振る。
そのせいで藤千代様の性器は振り子のように揺れた。
勃起したそれからは透明な汁が垂れてお堂の床を汚す。
それでも私は尻の穴から離れなかった。
徐々に苦しそうな呻きから甲高い喘ぎへと変わっていく。
なるべく痛い思いをさせたくない一心でひたすら穴を弄くっていた。
内壁は熱く蠢きながら私の指を締め付け押し出そうとする。
それに逆らうように奥を突けば藤千代様は仰け反った。
どんどん蕩けていく腸内は熟れてとろとろである。
初めは一本でもきつかった内部は大人の指が三本難なく入るほどに広がった。
それを信じられないと言った顔で見つめる藤千代様は初々しくて愛しさが募る。
抱き心地の良い体はどこを触っても気持ち良かった。

「ん、んぅ、っ…はぁ…っく…」

忙しない吐息がお堂内に響き渡る。
藤千代様は恥ずかしそうに股を開いた。
私はそこに顔を埋め熱心に舐めまわす。
時折彼が髪を引っ張った。
気持ち良過ぎる快楽は暴力と同じくらい体に衝撃が走る。
それをどう処理していいのか分かっていないのだ。
だから私の髪の毛を引っ張り背中に爪を立てる。
彼の腹に自らが放った精液が垂れていた。
それを舌で掬うように舐め取ると体がびくびくと震えた。
性器の付け根からヘソまでを丁寧に何度も往復する。
藤千代様はおへそが弱いのか、舌を突き入れようとすると泣いてよがった。
こんな姿を徳田さんが見たらどう思うのか。
立派な大名になるであろう人を手篭めにしてしまう自分に罪悪感と背徳感が忍び寄る。
(私は冴えない寺子屋の先生だったのに)
どこをどう間違えたらこんな状況になるのかと自嘲気味に笑った。
それこそ彼の父親に知られたら間違いなく死罪を言い渡されるであろう。
それでも藤千代様の喘ぐ顔が見られただけで幸せだった。
解れた穴は十分に私を受け入れる準備が出来てヒクついている。
物欲しげに見える収縮は卑猥でいやらしかった。

「はぁはぁ…先生、舐めすぎじゃ…」

藤千代様は喘ぎ疲れたのかぐったりしながら私の顔を覗き込む。
彼の言うとおり舐め過ぎたせいでお尻の穴がふやけていた。
時折びくっびくっと痙攣させながら次の刺激を待っている。
力が入らないのかだらしない姿を隠しもせず晒していた。
目を瞑り肩を上下させる藤千代様は涎を垂らしている。
私はその光景を見ながら慌てて着物の端を捲った。
そして熱く勃起した性器を取り出す。
藤千代様はそれを見てゴクリと息を呑み込んだ。
いよいよ自分の尻に挿入されると不安げに私を見ている。

「せ、先生。本当にそんな大きいもん入るんかのう?」
「私の知っている限りだと入るそうです。江戸で勉強していた頃に書物で読みました」
「んく、…はぁ…っぅ、先生は本当に物知りじゃ……呆れるほどにな…」
「私もまさかこんなところで役に立つとは思いませんでしたよ」

彼の穴に性器をくっ付けながら可笑しくて笑ってしまう。
藤千代様が重く感じないように気をつけながら覆い被さった。
こうしてみるとまだまだ小さな子供である。
彼はそれに合わせて私を受け入れるようにしがみ付いた。
そして露になった私の首筋に口付ける。

「……お返しじゃ」

囁くような甘い声が聞こえた。
チラッと見れば悪戯っ子のようにニシシと笑う藤千代様がいる。

「……っ……」

その姿があまりに可愛くて眩暈がした。

「いっ――――!!」

だから思わず勢い良く彼の穴を犯してしまう。
すると藤千代様の体は魚のように飛び跳ねた。
加減も知らずに奥まで挿入してしまったせいか目を見開いたまま止まってしまう。

「かはぁ…っぅ…」

そして咽るようにして咳き込んだ。
それほどの衝撃だったらしく涙目になっている。
だから私は一旦止まると窺うように彼を見た。

「はぁ…っ、…っとに、見た目によらず…乱暴じゃ…のう」
「大丈夫ですか?やめますか?」
「嫌じゃっ。絶対にやめんぞ」

半分意地になっているようにも見えたが私は何も言わなかった。
その気持ちが嬉しかったからだ。
藤千代様の穴は皺が拡がりギチギチに性器を咥え込んでいる。
挿入したといっても亀頭の部分だけでまだ根元まで入ったわけではなかった。
私は彼の両足を掴むと持ち上げて体重を掛ける。

「ん、っくぅ…はぁっ」

そうして狭い内壁を押し広げていった。
中はきつく私にまで痛みが走る。
このままでは性器を食いちぎられるかと思った。
藤千代様の性器は力無く項垂れて元気がない。
だから私は彼の性器を掴むと上下に扱いた。
皮の被った性器は未成熟で薄紅色をしている。
だからか一切嫌悪感を抱かなかった。
男の性器を掴んでいるというのに興奮している。

「ん、はぁっ…あ、なんじゃ…くぅ」

すると彼の意識がそちらに傾いたのか僅かに腸内は緩んだ。
これ見よがしに私は腰に力を入れて根元まで突き入れる。
一瞬の出来事に藤千代様は暴れそうになった。
それを抱き締めたままぐっと押さえつける。
その代わり私の背中を引っ掻いた。
鋭い爪の痛みに唇を噛み締める。
声にならない痛みが目の奥まで響いた。
だが私以上に藤千代様は痛かっただろう。
私の下では息も絶え絶えに涙を流す藤千代様がいた。
痛みによって勝手に流れ落ちた涙が頬を伝う。
それを唇で拭った。
すると彼は僅かに口元を緩ませて私を見上げる。
だから「良く頑張りましたね」と労い優しく抱き締めた。

「……先生は本当に変態じゃ」

すると藤千代様は私の腕に抱かれて困ったように笑う。
苦しそうに顔を歪ませているのに彼は幸せそうだった。
その相反する表情が胸に僅かな傷を作る。

「こんな変態はきっと誰にも相手にされんじゃろう」
「藤千代……」

彼は大袈裟な位困ったような顔をする。
何を言いたいのか解らなかった。
だから私は怪訝そうに見つめる。

「あーあ。独りぼっちは寂しいじゃろうなぁ」
「そ、それは……」
「だからといって他の女は無理じゃろう」

(わざわざこんな時に言わなくていいのに)
せっかく挿入したのに気持ちで萎えそうになる。
だが彼の顔は優しく穏やかであった。
初めて会ったあの夜よりずっと大人びて見える。

「……きっと、先生の相手は私にしか出来ん」
「え?」

私は彼の言葉に眉を顰めた。
(それってどういう――?)
そう問う前に彼が私の胸に擦りついてきた。
前髪が擦れてくすぐったい。

「一人前になったら迎えに来る」
「突然なに言って……」
「誰にも文句を言われんぐらい立派になれば先生だって遠慮なく城に来れるじゃろう」
「!!」

そう言って得意げに私を見上げる眼差しは強く気高かった。
思わず息を呑んだ私は返事できずに固まってしまう。

「何せ私の夢は偉い殿様になって先生に褒めてもらうことなんじゃ」
「…………」
「その場に先生が居なければ話にならんだろう。まったく困ったものじゃ」

だが藤千代様は私に構わずペラペラと話し続けた。
下半身の痛みをも感じさせずに軽快な口調で話す。
それはまるで私を励ますような声色であった。

「ニシシ。次会った時にはきっと惚れ直しているだろうな」
「藤千代…」
「何せ私はもっともっと良い男になる予定なんじゃからな。まこと楽しみよのう」

わざと明るく振舞っているのか。
それとも全てを受け入れた上で覚悟を決めたのか。
今の私には分からなかった。
だが残念なことに今の二人に希望はない。
しかしそれでも信じたいと思える強さを持っていた。
(ああ、この子はきっととてつもなく大きな存在になるのだろう。それこそ私なんかの手の届かない存在に)
だけど寂しくはなかった。
むしろ私は嬉しかった。
我儘で横暴な少年の成長を少しだけでも見守れた事が誇らしかったのだ。

「…わかりました」
「先生?」
「――約束、しましょう」

私は藤千代様の腰を抱くとそのまま起き上がった。
そして膝の上に乗せる。
体勢が変わったことが体に響いたのか藤千代様は一瞬顔を歪めた。
だけど抱きついて離れない。
私はそんな彼に小指を差し出した。
その意味に気付いた藤千代様はパァッと顔を綻ばせ私の小指に指を絡める。

「約束」

本当はそんなものに意味はない。
確率からいえばずっと低いものだっただろう。
だけど藤千代様は真剣だったから私も信じようと思った。
子供に夢を見させてもらっているなんて情けない話である。
冷静に考えればありえないことでも藤千代様が言えば奇跡が起こりそうな気がした。
起きないからこそ奇跡と呼ばれているのに笑ってしまう。
(奇跡なんて馬鹿馬鹿しい)
だけどその馬鹿馬鹿しさが今の二人には必要だったのだ。

――明け方。
昨日から降り続いた雨は止んでいた。
その代わり霧が山を覆い辺りが白く染まっている。
私は湿った着物に手を通しお堂の戸を開けた。
窓がないお堂に太陽の光が差し込む。
振り返れば未だ気持ち良さそうな顔をして眠っている藤千代様がいた。
あれから無茶をさせてしまったのだから仕方がない。
私は神棚にお参りを済ませると藤千代様を起こさないようにそっと抱っこした。
健やかな寝顔を見ているだけでも顔が緩む。
(やっぱり惜しい、か)
どんなに物分りの良い大人になってもこれだけは胸が痛んだ。
だからもう一度強く抱き締めて彼の感触に浸る。
そして私はゆっくりと霧の中を歩き始めた。

徳田さんは出発の用意を整えた状態で村の入り口に立っていた。
そわそわ落ち着かない様子を見るにきっと家でじっと出来なかったのだろう。
私は彼の元に向かった。
すると二人の姿に気付いた彼は目を見開くと深く頷いている。

「あとは頼みます」

私は余計なことを言わずにそれだけ呟いた。
そして藤千代様を渡す。
それだけで徳田さんには伝わったのか彼は大事そうに藤千代様を受け取った。
まるで壊れ物でも扱うように、そっと。

「……かたじけない」

あれだけ頭を下げる事を嫌っていた彼が私に頭を下げた。
侍らしく堂々とした態度であった。
キリッと結い上げられた髷に凛々しい表情。
私と徳田さんは少しの間無言のまま見つめあった。
(…これで良いのです…)
私は小さく頷く。
すると彼も同じように頷いた。
そして徳田さんは歩き出す。
そのまま彼は藤千代様を抱いて濃い霧の中へと消えていった。
青々しく伸びた葉がさざらうように揺れる。
そのうねりの中で白い蝶が羽ばたいていた。
雨上がりの澄んだ風が私の横を通り過ぎていく。

――二人を見たのはこれが最後であった。

***

「私は嘘を吐きました。
手紙の冒頭、貴方の噂を聞いていると書きましたがあれは嘘です。
本当は何も知りません。
藤千代様がどこの大名の跡継ぎかも知らなかったのだから当然でしょう。
正直、生きているのかすら分かりません。
もしかしたら貴方を狙っていた刺客の手によって亡き者にされてしまったのかもしれません。
私が知っているのはこの手紙が貴方の下には届かないことぐらいでしょう。
机の引き出しには毎年この時期に書いた手紙が眠っています。
嘘を吐くのは悪い事。
だから私はまた貴方に謝らなければなりませんね。
本当に申し訳――――」

コン、ココン、コンコンコン。

すると謝りの言葉を書いている途中で引き戸を叩く音がした。
ふと我に返って引き戸の方を見つめる。

コン、ココン、コンコンコン。

その乱暴な叩き方には聞き覚えがあった。
(まさか……)
私は思わず筆を持ったまま固まってしまう。
だが次の瞬間には勢い良く立ち上がって玄関の方へと駆け出してしまった。

ガラガラ――ッ!

慌てていたこともあって一気に引き戸を開けてしまう。
そのせいで戸の向こうにいた人物は驚き目を見開いていた。
だが私はその顔に目が合うと意気消沈してしまう。
引き戸の向こうに居たのは私が期待していた人物ではなかった。

「先生?どうしたんですか?何度叩いても反応がないから居ないのかと思いましたよ」

玄関先で首を傾げていたのは一之助であった。
だから思わず肩を落としてしまう。
(来るはずないじゃないか)
一瞬でも浮かれてしまったことに自己嫌悪した。
それと同時に恥ずかしくなる。
別れを告げたのは私の方なのに女々しく想い続けている事が情けなかったからだ。
あの時交わした約束が難しいことぐらいちゃんと分かっている。

「先生?」
「あ、いえ…なんでもありません。それよりどうしたんです?」

一之助も立派な大人になった。
たった三年といえども元服前と元服後では立場が違う。
大人として扱われると同時に責任意識が芽生えて自らしっかりせねばと思うのだから不思議だ。
あれだけやんちゃだった一之助も父親の跡を継ぎかんぴょうを作っている。

「母ちゃんから先生にって」
「あ、もしかして煮物ですか」
「うんそう」
「ありがとうございます」

一之助の母親はこうしてよく私の好きな煮物を作ってくれた。
それだけじゃなく村人達が美味しいご飯を分けてくれる。
相変わらず寺子屋で先生をしている私は今も村人達と支えあいながら生きていた。
何も変わらない日々。
穏やかで優しい日々。
もう梅雨を向かえそろそろかんぴょうの収穫が始まる。
そうなれば今年も寺子屋を閉じ、一之助の手伝いで畑に降りる予定であった。
毎年変わらない平穏な村である。

「じゃあまた」
「はい。お母さんによろしくお伝え下さい」
「はい!」

私と一之助はそうして別れた。
今日も外の天気は悪く朝から雨が降ったり止んだりしている。
私は玄関から厚い雲を見上げた。
うねるような音が聞こえる事からまた雨が降ってくるかもしれない。
毎年のことながらうんざりした様子で戸を閉めると一息吐いた。
そして持っていた大盛りの煮物を見下ろす。
雨で憂鬱だが好きなものがあると心持ちは違った。
人間とは単純なもので食欲には勝てないのである。
だからそのいい匂いに目を閉じしばらく浸っていた。
こうしていると腹が減るものである。
染み込んだ野菜と醤油の匂いがどうにもお腹を誘っていた。
(そろそろご飯にしようかな)
私は好物の煮物を手にして口元を緩ませる。

コン、ココン、コンコンコン。

するとまた戸を叩かれた。
(一之助かな)
どうせ何か言い忘れたことでもあったのだろう。
昔から抜けてるところがあったせいか、しょっちゅうそんなことを繰り返していたのだ。

「一之助、今度はなん――」

私は困ったようにため息を吐きながら引き戸を開けた。
そして眉間に皺を寄せながら彼の顔を見ようとする。

「――!!」

だが私の顔はそのまま固まってしまった。
一瞬手に持っていた煮物を落としそうになって冷や汗をかく。
そこにいたのは一之助ではなかった。
一人の青年が玄関前に立ちじっと私を見つめている。

ポツポツ――。

(雨……?)
すると、とうとう暗い空から雨が降ってきた。
二人は対峙したまま空を見上げる。
まるで雨が“彼”を待っていたように思えた。
なにせ出会った夜から別れの朝まで雨ばかり降っていたからだ。
しかしそれでも私は固まったまま動けなかった。
二人の間を生温かい風が吹きぬける。
すると雨の雫が頬に垂れた。
それを拭う手のひらは前に見た時よりずっと大きく逞しく見える。
だがその雰囲気は何も変わらず無邪気そのものであった。
嬉しそうに笑う“彼”は小指を差し出して小さく呟く。

「先生、約束じゃ。私はあなたを迎えに来た――」

END