8

――翌日は熊本造花店の開店日だった。
相変わらず今日も澄んだ青空が広がっている。
僕はいてもたってもいられず早々に朝食を済ませると家を出た。
そして店の斜め前の生垣に身を潜めて様子を伺っている。
店の開店時間はまだで熊さんは未だに準備を進めていた。
先ほどからせっせと店の外へと花の入ったバケツを出している。
本当は手伝おうかとも思ったがやめた。
新たなスタートを熊さん自身できってほしいからだ。
そこにはきっと他の人の手なんて必要ないのだと思った。

しばらく身を潜めているとガラガラと何かを引き摺る音が聞こえてきた。
その音に顔を出すが慌てて引っ込める。
道の向こうから緑のばっちゃんがいつも買い物時に使っているカートを引いてやってきたからだ。
相変わらずきちっと着物を着こなして髪の毛を結わえている。
まさか彼女が姿を現すとは思わなかった。
だが驚いたのはそれだけじゃない。

なぜなら彼女の右手には――――。

「……なんだ、まだ開いていないのかい」
「いえ、大丈夫で……あっ!?」

ばっちゃんは店の前で止まった。
しゃがんだまま作業を進めていた熊さんに声をかける。
それに合わせて振り返った熊さんは彼女の姿に驚いたのか目を見開いた。

「ふん、なんだいその態度は。客が来たらいらっしゃいませだろうよ」
「あ、すみませっ――……い、いらっしゃいませっ」

横を向いたばっちゃんと狼狽する熊さん。
そんな二人を側で見ていた僕は二人以上に緊張してそわそわ落ち着かなくなる。

「昨日はどうも」
「…………」
「勝手に押しかけちゃってすみませんでした」
「…………」
「それに村に帰ってきたのにご挨拶も遅れて……」

ばっちゃんは一言も口を利かずにじっと熊さんを見つめていた。
というより彼女の場合睨んでいたと表現した方が適切かもしれない。
いつものように険しい表情をしていたせいか熊さんは少し焦っていた。
むしろ彼はどうして彼女が自分の店にやってきたのかも理解できていないようだった。

「これに合う花が欲しい」
「えっ!?はっ…?」

するとばっちゃんは唐突に右手を突き出した。

「昨日、あんたが帰った後、うちに一匹の小猿がやってきたんだよ」
「は、はぁ……」
「小猿は泣くしか能のないとんだお馬鹿さんでねえ。こんなもん持ってきたんだよ」

ばっちゃんの帯の端から出てきたのは四つ折にされた紙だった。
それをさも不機嫌な口調で熊さんに手渡す。
僕はそれが昨日のチラシだと気付いて逃げたくなった。
いつかは熊さんにも知られてしまう事だけどいきなりチラシの件がバレてしまうのは恥ずかしかった。
何より自分の描いたものを最初に見られるのは気まずい。
だって僕は図工が苦手で成績も良くなかったから。

「あっ……」

すると紙を開いた熊さんは息を呑むように驚いて声を詰まらせた。
その表情にばっちゃんは「ふん」と口角を下げる。

「どこで手懐けたんだが知らんと、はた迷惑な小猿だねえ」
「…………」
「ついでにかすみ草だけ持ってくるなんて親の顔が見てみたいよ、まったく。これじゃ花瓶に入れても寂しくて可哀想だ」
「ばっちゃ…これ……」

右手に握られていたのは昨日渡したかすみ草だった。
ばっちゃんが現れた時、何より驚いたのはこの花のせいだった。
だってまさか彼女がかすみ草を持って店に来るなど誰も予想できない。

「――おい、そこの小猿」
「!!」
「いつまで隠れているんと?盗み聞きなんて随分いい趣味しているじゃないさ」

不意にばっちゃんが振り返った。
そこでお間抜けにも顔を出していた僕と目が合う。
慌てて取り繕おうとするがすでに遅い。
何よりこんな時にあたふたさせると余計にばっちゃんの機嫌を損ねる事を知っていた。
だから素直に生垣から出て行く。

「ごめんなさい」
「さっ三太君」

姿を現した僕に熊さんは驚いた。
その側で彼女は失笑する。

「馬鹿だね。気付かなかったのかい?図体ばっかりでかくなってしょうがないねえ」
「す、すみません」

僕と熊さんはそれぞれ頭を下げる。
やはりどうしたって緑のばっちゃんには勝てないのだ。
それは僕らだけでなく村のほとんどの人が共通しての事であろう。

「それより早く花を見立てておくれよ。それともここは花屋の看板を出した詐欺師の店なのかい?」
「い、いい、いいえっ。あっ、すぐにご用意致しますので」

すると熊さんは僕と話す間もなく店の奥に引っ込んだ。
中に飾られている花とかすみ草を合わせていく。
緊張しているのかいつもより余裕がなかった。
相手がばっちゃんだから仕方が無いだろうが、その度に彼女は熊さんに皮肉を言う。
だが側で聞いていた僕は、言葉とは違った印象を受けていた。
もしかしたらばっちゃんはそうやって皮肉めいた事をいいながら、彼とコミュニケーションをとっていたのだろうか。
年老いた頑固さと独り身の寂しさが拍車をかけて、こんな物言いしか出来なくなったけど、本当は熊さんを構いたくて仕方が無かったのかもしれない。
愛情を表すには実に不器用で遠回りだが、意地悪な言葉の端々に僅かな愛を見つけたのは確かであった。
普通なら素直に言えることも、ばっちゃんにはそれが苦手なだけで、内なる感情はもっとずっと深いところにあるのかもしれない。

「……三坊」
「ん?」
「かすみ草の花言葉は知ってると?」
「え、あ……」
「なんて、お前が知るはずないなあ」

ばっちゃんは少しだけ困った顔をしていた。
いつもはキツイぐらい上げられた眉毛が珍しく寂しげに下がっている。

「年は取りたくないよ。自分の汚れにも気付けなくなるんだから、まったく…情けないねえ」
「…………」

見れば痛々しそうに腰を曲げた老婆が小さく映った。
彼女の切ない物言いにはどんな言葉も無力な気がして、そっとばっちゃんの手を握る。
母さんよりずっとシワシワの手は不思議な感触だった。
渇いた皮膚が擦れて温もりが染みこむ。
彼女は僕の行為を突っぱねることをせずじっとしていた。
だからもう一度ばっちゃんの顔を覗き込む。
普段なら文句でもいいそうな彼女だかその時だけは違った。
何も言わないどころか、こちらを見ようともせず唇を噛み締めていたのだ。
それは泣くことを拒むようにもそして笑うことを耐えるようにも見えた。
だけど手を離す最後の一瞬、僅かに彼女が僕の手を握り返してくれたのは嘘ではない。

「……また来てやると」

熊さんから花束を受け取ったばっちゃんは一言それだけ呟いて店を出た。
僕と熊さんは彼女の後姿が見えなくなるまで見送った。
最後までばっちゃん節だったことに二人は顔を見合わせて笑う。
端から見れば些細な出来事かもしれないけど僕らにとっては大きな一歩であった。
彼女が去った店は開店準備のまま止まっていて乱雑に物が置かれている。

「良かったね。ホントにホントに良かったねっ」

僕は店内を見回しながら何度も呟いた。
ばっちゃんとの確執がこれによってだいぶ和らいだと思う。
それだけで気分は高揚しいつも以上に饒舌になってしまう。
もちろんまだ他のお客さんは見えていないしお店の経営だってこれからなんだから喜ぶのはまだ早いのだ。
それでも嬉しくって騒ぎたくなってしまう気持ちは止められない。
秀樹や協力してくれた友達にもこの事を早く伝えたかった。

「ありがとう」
「わっ」

すると小躍りしていた僕の背中を熊さんが抱き締めた。
うっかり気を許していた僕は簡単に彼の腕に包まれる。
それは数日振りの感触だったが無性に懐かしくてホッとした。
だから僕はコクリと頷いて体の力を抜く。

「僕だけじゃないよ。秀樹やみんなが協力してくれたんだ」
「ん」
「それに、一番頑張ったのは熊さんでしょ?」

ばっちゃんが来てくれたのは熊さんの誠意が伝わったからである。
子供ひとりの情に絆されるような人ではないことをちゃんと知っていた。
きっと熊さんはばっちゃんと向き合ったのだ。
そこでどんなやりとりがあったのかは知らない。
でも熊さんは一生懸命気持ちを伝えたのだ。
それは逃げずに自らの過去に立ち向かったとでもいえよう。
だからばっちゃんの心は開かれたのだと思う。

「…むしろ僕、余計なことばっかりしちゃった気がするし」

机の上に置かれたチラシが目に入って恥ずかしくなった。
綺麗とは言えない花の絵がなんとも泣けてくる。
これなら少しは真面目に絵でも描いておけば良かったと後悔するところだった。

「そんなことない」
「熊さ…?」
「そんなことないよ」

すると熊さんの体がわずかに震えている事に気付いた。
いつもどんと構えている彼がほんの少しだけ気を許すように甘えている。

「…っ…」

その相手が僕で良かったと心底思った。
身長差のせいで熊さんみたいに頭ナデナデはしてあげられないけど撫でてあげたくなった。
誰かに甘え続けた僕がこうして誰かの支えになれたら、それは幸せなことだと思う。

「三太君がいたから俺は今こうしていられる」
「ん、それは僕も同じだから」
「同じ?」
「うん。同じ、だよ」

最初に彼を見たのはいつだっただろうか。
遡った記憶は実に曖昧で僕は苦笑する。
ただ覚えているのは、僕はずっと熊さんとお話がしたかった。
秀樹達のように仲良くなりたかった。
それからしばらくして熊さんに声を掛けてもらったのだが、一言もしゃべれなかったのを覚えている。
次に会った時は少しだけ話が出来た。
その次に会った時はもう少しだけ話が出来た。
まるでひとつずつ色を重ねるように増えていった会話は僕にとって何にも代えられない大切な思い出であった。

……熊さんは知らない。
僕がこんなにも深く想っていたことを。
そして僕は知らない。
熊さんにどれだけ深く想われていたかを。

「俺、三太君が好きだよ」

すると熊さんは小さく耳元で囁いた。
たった一言だったのに肌は敏感でその言葉と共に体温が急上昇する。

「本当はずっと、ずーっと言いたくてたまんなかった」
「く、熊さ…」
「やっと言えた。やっと言える自分になれた」

彼はどこかホッとしたように空を仰いだ。
だがそれもすぐに一変する。

「あーーっ!!」

彼が突然突拍子も無い声を上げたかと思えば体を引き離された。

「わ、悪いっ」
「へっあ、な、何っ!?」

彼の尋常じゃない様子に、僕は驚いて口を開いたまま瞬きを繰り返すと、なぜか熊さんは手を合わせて頭を下げている。
その行動の意味が分からず首を傾げた。

「開店準備中の店でなんか告白されても嬉しくなかったよな!」
「えっ…」
「俺、昔からこういうのに疎くてだな、本当は川とか森とか雰囲気の良い場所でと考えていたんだが…うーんと」
「…………」
「ああー…肝心な時に…」

彼はそういって困ったように後頭部を掻きあげる。
だから僕は「ぷっ」と笑ってしまった。
そういう余裕のなさが熊さんのいいところだと思っていたからだ。

「ううん、そんなことない」

僕は見慣れた店内をぐるっと回ると首を振る。

「ここが一番好きな場所だから」

いかにも年季の入った店内は優しい木の匂いでいっぱいだった。
隅っこのホコリに似合わない鮮やかな花や、熊さんが成長した証が沢山散らばったお店は、どんなロマンチックな景色も勝てない暖かさで満ちている。
そんないつもと同じ店で、いつもと違う二人が向き合っていた。

「僕もね…熊さんが好き」

だからここから始めようって思った。

「熊さんが好きだよ」

***

――こうして村の熊さんは新しい生活をスタートさせた。
秀樹やばっちゃんの働きによって店のお客さんは徐々に増えていった。
険しい道が多い村だけあってご老人の為の宅配サービスも始めた熊さんは日々忙しそうにしている。
それは花だけでなく商店街と連携したサービスであった。
それでもばっちゃんは宅配サービスを頼む事を嫌い地道に店へとやってくる。
何でも宅配を頼むと年に負けた気がするからだと言っていた。
何せ夕方には花を買うわけでもなく店前のイスに腰掛け熊さんに小言を呟いているばっちゃんが度々目撃されたぐらいだ。
熊さんはそんな彼女の話を苦笑しながら聞いている。

また休みの日には今まで通り秀樹達と野球をしていた。
彼はもちろん四番打者である。
そして僕は名ばかりの名誉監督である。

「うっし、今日のホームランも三太に捧げよう」
「ちぇっ三太ばっかりー」
「なんていったって我がチームの監督だからな」
「熊さんそれ違う。次はウチのチームの監督なんだって」
「まぁいいじゃないか」
「よくないっ」

秀樹と熊さんはピッチャーとバッターとして向き合っていた。
僕はそれに介入する事無く傍観している。
二人の間に入って上手く立ち回れるほど器用な人間じゃないからだ。

「……はぁ、だから名ばかりの監督なんだってば」

僕は誰にも聞こえない位小さな声で呟く。
そろそろ夏休みも残すところあと何日かになった。
気付けばひまわりが種の重みに耐え切れず下を向いている。
学校から持って帰った朝顔も季節の変わり目を受け入れてしぼんでいた。
夏の終わりを感じて痛切に寂しさが過ぎる。
だけどそれはまた新しい季節の始まりであった。
二学期になればまた賑やかな日々が始まる。
この寂しさはいつも一時のものであり、自然な流れであった。
(特に今年は特別な夏だったから)
成長したなんて自分では良く分からない。
だがもし未来の自分が過去を振り返った時、やはりこの夏の僕は変わったのだと言えるような気がした。
なんて、あくまでもそんな気がするだけなのだが……。

カッキーン――!!

すると考え込む僕の耳に、随分気持ちの良い音が響いた。
ふと空を仰げば球が、甲を描き空に吸い込まれるように高く飛んでいく。
それを秀樹はピッチャーの立場から、がっくりと肩を落として見つめていた。
熊さんは軽やかにベースを回りながらこちらに手を振る。
僕は嬉しさと恥ずかしさの板ばさみになりながら手を振り返した。

さわさわっ

ボールは風に流されるように遠くへ遠くへと飛んでいく。
それとなく流れた風には微かな秋の匂いがした。
だから僕は空を仰いで目を閉じる。

――ひとつ、夏空に「さよなら」を。

END