金曜の夜、ゴミ捨て場のネコ

月曜の夜、仕事帰りに三日月(みかづき)は商店街の裏道を歩いていた。
気が滅入るような寒さに身を縮めながら近道を通って帰る。
家に着いたらまず温かい風呂に入ってビールとつまみで一杯やる予定だ。
つらい社会人生活の中で唯一ホッと出来る時間だった。
自然と速くなる足取りに視界の先で何かが動く。
古い街灯の下、見えてきた店と店の間の路地に置かれた大量のゴミの中で、三日月は猫かと首を捻らせた。
さほど気にも留めず通り過ぎようとする。
だがゴミ捨て場の前に差し掛かったとき、彼は驚きで目を見張ると思わず二度見した。
無意識に歩みを緩める。
猫かと思っていたら人間の子どもだったのだ。
少年は積み上げられたゴミの中でうずくまり膝を抱えていた。
全身黒づくめの格好で闇夜に同化し、近づくまで全く気づかなかったのだ。
無表情でじっとしている異様な姿に三日月は幽霊かと思って一瞬肝を冷やすが、驚きは表に出さずそのまま通り過ぎる。
(……変なやつ)
ああいうのには関わらないのが一番だ。
第一にもう子どもが出歩く時間ではない。
気味が悪くて三日月は何も見なかったフリを決め込むと、その夜のことはすぐに忘れた。

しかし翌日の夜も、さらにその翌日の夜も同じように少年はゴミの中にいた。
陶器のような硬い表情で視線は斜め下を見据え、何を考えているのか読み取れず、ただ時が過ぎるのを待っているようにも思える。
三日月は何度か警察を呼ぼうかと思ったが、得体の知れない少年の姿に気が引けて、いつも見ないフリ気づかないフリをしてその場を去った。

だが、金曜の夜は違った。
彼は少しだけ酔っていた。
仕事が終わり帰ろうとしていた矢先、意地悪な上司に呼び止められて面倒な仕事を押し付けられた。
自分以外は飲み会へ行ってしまうという。
大して行きたいとも思っていなかったが、自分だけ除け者にされるというのは気分の良いものではない。
ひとり残された三日月は黙々とパソコンに向かった。
そうしてどうにか仕事を片付け終えたころには終電間近になっていた。
金曜の華やかな賑わいの中でひとり帰路につくのも虚しく、地元の駅前にある立ち飲み屋で一杯だけ飲んで帰ることにした。
冬の夜は程よい酔い冷ましになる。
それでもどこか頭はふわふわして思考が鈍っていた。

そこに見えてきたのが、いつも少年がいるゴミ捨て場だった。
今日は金曜の夜ということもあり、普段よりゴミの数は多い。
もう午前をとっくに回っている時間で、さすがに今日はいなくなっていると思った。
だが、目が合った。
初めて少年と目が合った。
彼は今日もゴミ捨て場にいた。
しかもなぜか水色のポリバケツの中にゴミと一緒に入っていた。

「なに、やって……」

三日月はふと立ち止まる。
唐突に芽生えたのは苛立ちだった。
最初に見た時は気味が悪いと思ったし、少しばかり心配もした。
だが、今日の三日月は苛々した。
黙ってゴミの中にいる少年が、要領の悪い自分、いつも嫌なことを押し付けられて何も言えない自分に重なったのだ。

「え?」

少年は近づいてきた三日月の存在に戸惑いの声を上げた。
たまたま目が合っただけのように思っていた彼は、三日月がどういう意図で近づいてきたのか分からなかった。
急に腕を掴まれる。
そのままポリバケツの中から引き上げられる。
次の声を発する間もなく、少年は三日月に担ぎ上げられ、ゴミ捨て場をあとにするのだった。

***

「ああ、俺は何をやってしまったんだ……」

三日月が正気に戻ったのは少年を自宅へ連れてきて問答無用に風呂へ入れさせ、シャワーの音が聞こえてきたころだった。
仕方がなかった。
少年の体を担いだとき、驚くほど軽くて臭かった。
あれだけゴミの中にいたのだから仕方がない。
むしろこれが夏であったらと想像すると、それだけで背筋が震え上がった。
(俺って誘拐犯?)
携帯片手に頭を抱える。
先ほどから警察に連絡をしようか思い迷っていた。
ゴミ捨て場にいたから拾ってきたなんて信じてもらえないし、こんな遅い時間だと良からぬ疑いをかけられるかもしれない。
しかも少年は小学生だった。
横目でちらっと少年が背負っていた黒いランドセルを見つめる。
彼の体を引き上げるまで気づかなかった。
薄暗い場所では無理もない。
(やばいよ。これ絶対やばいやつだよ)
どうにかして少年を家に帰さなくてはならない。
最悪警察沙汰にでもなれば会社をクビにされてしまうかもしれない。
思い描く未来予想図は暗く湿っていて、せっかくのほろ酔い気分も吹き飛んでしまった。
三日月はそっとランドセルに手を伸ばす。
開ければきっと少年の名前や自宅の住所が分かるものが見つかると思った。
そうして厄介ごとから早く手を引きたかった。

「触らないで!」

だが、真後ろで声がした。

「ご、ごめんっ」

やましいことなんてないのに、三日月は咄嗟に背筋を正して謝った。
振り返ると風呂から出た少年が睨むように三日月を見ている。
少年はタオルを首にかけたまま三日月の傍までいくとランドセルを奪い取った。
そして決まり悪げに目を伏せる。

「あ、ご、……ごめん」

三日月はもう一度詫びた。
ただランドセルに触れようとしただけなのだが、少年の様子に、自分が途轍もなく悪いことをしてしまったような気がしたからだ。
すると少年は三日月を見た。
彼はもう睨んではいなかった。
だが、眼差しの強さに三日月はうろたえそうになった。
大きくて真っ黒な瞳は見透かされてしまいそうだった。
アジア人でも多少茶色がかっていたり、微かな濁りはあるはずなのに、ここまで澄み切った黒は威圧的で少々怖かった。
まるで人間じゃないみたいだった。
(…って、子ども相手に何ビビッてんだよ。俺のほうが年上なんだ)
三日月は黙って食い入るように見つめる眼から逸らすように後ろのベッドへ腰掛けた。

「で、何やってたんだよ。あんなところで」

窓の外は少年と同じ漆黒の闇である。
真冬の骨まで凍みる寒さの中なぜゴミ捨て場なんかにいたというのか。
少年はきょとんとしていた。
まるでさも当たり前のことを聞かれたみたいに数回瞬きをすると、

「ゴミの気持ちを考えてたにゃあ」
「は……?」
「だからゴミの気持ちを考えていたんだにゃあ」

三日月は彼の答えに頭が禿げ上がりそうなほど後悔した。
先ほどからずっと後悔をし続けていたが、比にならないくらい落ち込むと胃が痛くなってきた。
(やべえ、こいつマジで拾ってきちゃいけないやつだった)
どこから突っ込んでいいのか分からない。
ゴミの気持ちに触れるべきなのか、それとも語尾の「にゃあ」について言及すべきなのか。

「…お前、名前は?どこに住んでいるんだ?今頃親だって心配してるだろ」

三日月はあえてどちらにも触れることをしなかった。
差し障りないことだけ聞いて穏便に事を済ませようとした。
大人の賢さとも狡さともいえる対応だった。

「僕はネコですにゃ。家はないですにゃあ」

だが、この少年は一筋縄ではいかなかった。
せっかく三日月が不可解な発言をなかったことにしたのに、今度は自分のことをネコだと言い出したのだ。
まるで思考の迷路に迷い込んだような気分だ。
「またまたー」と冗談に笑い飛ばせばいいのか、それとも真剣に医者を紹介するべきなのか。
胃の痛みが背中にまで響き始める。

「いい加減にしろ。家まで送っていくから住所が分かるもんを出せ」

三日月は胃の不快感を我慢するように冷静な態度で臨んだが、少年は反応を示すことなく、自分はネコで家はないという設定で押し通そうとした。
ありえない子どもの戯言。
ネコが人間になるわけもなければ、ネコがランドセルを背負って学校へ通うこともない。
どうしてそんな分かりやすい嘘をつくのか謎だったが、そこまで追求する気にはなれなかった。
結局話し合いは平行線を辿り終わりが見えなかった。
先に折れたのは少年で、

「では、僕は家に帰りますにゃー」

散々家がないとのたまったくせに、平然とした顔でランドセルを背負うと出て行った。
途端に家の中が静かになる。
残された三日月は釈然としない苛々を抱えて冷蔵庫からビールを取り出し、一気に喉の奥に押し込んだ。

「最近の子どもは頭大丈夫なのか……」

今日が金曜の夜で良かった。
これが月曜の夜ならぼやき程度では済まなかった。
腹が立って少年を怒鳴りつけていたかもしれない。
明日は会社に行かなくて良いという事実が三日月の精神を少し余裕にさせた。
それくらい金曜の夜は気分が良かった。

「……そういえば、俺もあのくらいの時が一番楽しかったな」

常に自分を受け入れてくれる家族がいて、楽しくもない仕事で朝から晩まで家に帰れないこともない。
三日月は思い返すように天井を振り仰ぐと、缶を持ちながらベッドに寄りかかった。
子どものころは余計なことを考えずに済んだから楽だった。
三日月は要領が悪く、言葉も足りないため、昔から人付き合いが下手だった。
だけど小学校は楽しかった。
地元の子たちは学校に入る前から近所付き合いがある家庭ばかりで、三日月のそういう部分も自然と理解してくれていた。
今さら過去を美化するつもりはなくても、人付き合いの難しさを知る前の、毎日無邪気に遊んでいた頃を思い出して感慨に耽る。
同時に月曜からの仕事を思い出して気分が塞ぎ込む。
この年になって父親の偉大さに気づいた。
思えば三日月の年齢の時にはもう母親と結婚し自分は生まれていた。
物心ついた時から父親とは毎日仕事で遅くまで働いているもので、家にいないのが当たり前だった。
だから自分も大人になったら父親と同じように結婚をして、子どもを作って、毎日仕事に精を出していると思っていた。
けれど、現状三日月には結婚相手もいなければ恋人もいない。
それどころか仕事さえうまくいかず、冴えない日々を送っている。
日曜の夜の憂鬱さは何年経っても慣れなかった。
これを定年まであと数十年続けると想像するだけで眩暈がしてくる。
とはいえ、起業や独立出来るほどの力はなく、不甲斐ない自分に情けなさでいっぱいになる。

「…あいつ、ちゃんと家に帰ったかな」

三日月はぼそっと呟いた。
先ほどまで少年がいた場所に目を向ける。
おかしな夜だった。
ゴミ捨て場にいた少年を連れて帰ったら自分をネコだと言った。
これがSF小説ならここから数奇な物語が始まるのだろう。
現実感のない衝撃と感動に彩られた魅惑の世界である。
だが生憎ここは悲しいくらいの現実で何かが始まる気配はなかった。
そもそも少年は帰ってしまったのだ。
物語は始まる前に終わってしまったのだ。
そうさせてしまった原因は自分にある。
(…………家に帰る、か)
その時、なんとなく三日月の心に引っかかった。
あれだけ自分はネコなのだと、家はないのだと言い張っていた少年があっさり「家に帰る」と言った。
三日月の口うるささに辟易として出て行ったのは分かる。
でも本当に「家」に帰ったのだろうか。
そもそも帰る家はあったのだろうか。

「いやいや…別に俺はもう関係ないし」

三日月は思考を振り払うように残ったビールを飲み干した。
喉に絡みつく辛みと弾ける炭酸で忘れようとする。
実際、もうどうでも良いのだ。
あの少年が家に帰っていればそれで良いし、家に帰らず町をフラフラしていても三日月には関係ない。
だが、無意識に時計を見たのがまずかった。
もう午前二時を過ぎている。
吹き付ける北風が微かに耳を騒がせた。
無音の部屋に響く音が三日月を責めているように思えてくる。

「ああもう」

三日月は缶を潰すと立ち上がった。
(放っておけるか)
心底嫌悪した。
なかったことに出来ない己に、生真面目でお人好しで生きるのが下手くそな自分に唾を吐きたくなった。
だが、いてもたってもいられなかった。
少年のためではない。
少年を見捨てる自分が許せなかったのだ。
三日月は小さく舌打ちすると、カーテンレールにかけていたコートを再び羽織り、人々が寝静まった町へ出て行った。

***

外はもう金曜の夜らしい賑わいも消えて全身を締め付けるような寒さが支配していた。
人のいない住宅街は無機質で、昼間とは違った顔を見せる。
明かりの乏しい路地は、成人男性でさえ通るのを躊躇うだろう。
仰いだ空は冬らしい澄みきった大気で星も冴え冴えと光っていた。
三日月は考える間もなく小走りになった。
呼吸の音さえ邪魔になる静寂の中で靴音だけが反響する。
向かった場所はただひとつ――。

「おい」

ゴミ捨て場に少年がいた。
やはり彼は家に帰っていなかった。
見つけた三日月は即座に声をかける。
少年は聞こえていないかのように俯いたままだった。
先ほどと同じようにポリタンクの中にちょこんと座っている。
せっかく風呂に入ったのに台無しだ。

「おいネコ」

三日月がそう呼ぶと少年――もといネコは視線だけ合わせてくれた。
内心面倒なやつが戻ってきたと思ったかもしれない。
ネコのほうがうんざりしているかもしれない。
三日月は一瞬困惑したような素振りでため息を吐いた。
口にしようとしていることを躊躇うようにも見えた。
しかし迷いをかき消すように乱暴に髪を掻くと、

「お前ネコなんだろ」
「にゃあ」
「じゃあ一晩くらい俺んちに泊まったって問題ない…よな?」
「にゃ、あ?」

ネコは不思議そうに首を傾げた。
言葉の意味を咀嚼できずにいるみたいだった。
三日月は構わず腰を掴むとポリタンクの中から出してやる。
(俺って本当にバカだよな)
ネコを無視できるくらい割り切れる性格をしていたら生きるのはもう少し楽だったかもしれない。

「…………?」

ネコは戸惑いながらも大人くしていた。
抗うことも逃げることもせず黙って三日月を見ていた。
まるで観察するように大きな瞳で見上げる。

「…こいよ」
「にゃ、にゃあ」
「ここじゃ寒いだろ」

三日月はネコを促すよう先に歩き出した。
ぶっきらぼうな言い方だが、その言葉には微かな温かみを感じた。
だからネコは思い迷ったように左右を見たあと、三日月のあとをついていった。
いや、ネコが三日月についていったのはそれだけが理由ではない。
三日月が彼に対して問いただすようなマネをしなかったからだ。
なにより自分を「ネコ」と呼んでくれたからだ。
三日月は言葉を慎んだ。
今、何を話しても余計なことにしかならないと思ったからだ。
歩幅の違う足音だけが辺りに響く。
ネコも察するように黙るが、二人の間に流れる空気は案外心地よかった。
不思議な夜だった。
結局ネコは三日月をSF小説の主人公にはしてくれなかったし、数奇な物語も始まらなかった。
互いに名前すら知らない関係である。
だが、悪い気はしなかった。
三日月のエゴだと分かっていたが、少しでもネコが同じ気分だったらいいのにと思った。

翌朝、目覚めたらネコの姿は消えていた。
一瞬夢かと思った。
それほど日常感が薄れた出来事だった。
その代わり部屋が綺麗に片付けられていて、いい匂いがすると思えばキッチンにはラップをされた朝食が、鍋には温かな味噌汁が用意されていた。
起きがけのだらしない格好で皿に乗せられたきんぴらをつまむ。

「…………うまい」

甘辛いきんぴらはどこか懐かしい味がした。

***

その後、土日を挟み、翌週月曜の夜、またゴミ捨て場にネコがいた。
三日月と目が合うと「にゃー」と鳴いた。
びっくりするほどやる気のない声だった。
呆れながら近づいた彼はネコの腰を掴んでポリタンクから出してやる。
これで三度目だ。

「お前、補導されないの?」

ランドセルを背負った子どもが夜の街にいれば警察だって放っておかないだろう。
しかしネコは首を振った。

「ネコなので大丈夫ですにゃ」

相変わらずネタなのかマジなのか悩むところだが三日月は流した。
いちいち突っ込んでいたら身が持たないし、また深く聞こうとすれば嫌がられると分かっていたからだ。
この少年は、人間ではなくネコなのである。
三日月はそう思い込もうとした。
(本当にそうだったりして)
そんな風に考える自分がおかしくて苦笑いする。

「にゃあ?」
「そういえば先週はありがとな。部屋片付けてメシも作ってくれただろ」
「ネコの恩返しですにゃあ」

ネコはそう言ってまるで招き猫のように左手をくいくいと上下に振った。
無気力そうな表情に言葉と態度の噛み合わなさが可笑しい。
だから三日月はその頭を乱暴なぐらい撫で回した。

「ばーか」
「にゅ」
「ガキがそんなこと考えんなっつーの」

彼が本当に猫ならば良かった。
そうすればゴミ捨て場にいることの違和感なんてなくなる。
だが、彼は猫ではなく人間なのだ。
貧しい国ならいざ知らず、この日本で深夜のゴミ捨て場に子どもがいるのは正常ではない。

「今日もずっとここにいるつもりなんだろ」
「あ、う」
「どうせうちも狭いし汚いしゴミ捨て場みたいなもんだ。またこいよ」
「えっ……?」

ネコは咄嗟に顔をあげた。

「ただし余計な気を回すんじゃねーぞ」

三日月はネコの鼻をつまんでやった。
例え社会の負け組だろうとも三日月は大人で、一回り以上違うであろう子ども相手に恩を売るつもりはなかった。

「あ、でも……」

ネコは頷かなかった。
顔をあげたと思ったが、目は逸らされて視線は地を這う。
明らかに動揺した素振りであった。
(知らない男に誘われたらそんな反応だろうな)
先週の金曜日はおかしな夜だったのだ。
お互いに勢いでの出来事だった。
しかし、冷静に考えるととんでもないことである。
三日月がネコのことを知らないように、ネコもまた三日月のことを知らない。
怪しいやつに思われても仕方がなかった。
(俺だってあの日まではこいつを無視していたくせに、虫の良い話だよな)
ずっと関わらないようにしていた。
見かけても顔を背けて見ないフリをしていた。
厄介ごとには関わらない。
社会で生きていくなかで自然と身についた教えだ。
まだ社会人になりたてのころ、通勤電車で痴漢を捕まえた。
だが、思った以上に大事になってしまって、被害者の女の子は奇異の目に晒されてしまった。
彼女は小さく泣きそうな声で「余計なことをしないで」と呟いた。
そうなって気づいた。
自分が良かれと思った行動が誰かを傷つけることもある。
完璧な立ち居振る舞いなんて脚本のない現実では無理だ。
だから街で揉め事が起きていようともわざわざ仲裁になんか入らないし、困っている人がいたってよほどじゃない限りは声をかけない。
自分が対処しなくても良い。
だって相手もそれを望んでいるかなんて分からないじゃないか。

「……この前も今日も、余計なことだったら悪かったな」
「あっ」

三日月は気まずそうに苦笑いを浮かべてネコから離れた。
距離を置くように一歩さがる。
だが、その瞬間ネコが惜しむような声をあげたのを見逃さなかった。
自分でも意図していなかった声があがったことに、ネコは決まり悪そうに肩を竦ませる。
垂れた眉毛に、もし本当のネコで尻尾があるとしたら、同じように垂れていたのではないかと思いぷっと吹き出した。

「お前も生きるのが下手くそだな」
「……え?」

三日月は生き下手な己の姿を重ねるようにネコを優しく見つめた。
同時に子どものころ河原で怪我した黒猫を拾ったことを思い出す。
全く人間に慣れていない猫で、人前では絶対にご飯を食べなかった。
カラスにやられたであろう左足の怪我も手当てするのに苦労をした。
父親と二人がかりで腕にいくつもの引っかき傷を作りながら消毒をして包帯を巻いたものだ。
それから部屋の隅で警戒するように大人しくしている猫に、三日月は根気強く世話をした。
何かを求めていたわけではない。
見返りが欲しかったわけでもない。
ただ自分がしてやりたかったのだ。
一ヶ月後、怪我が良くなった猫は、初めて三日月の手から直接おやつの煮干しを食べた。
猫は彼を真っすぐ見上げると「みゃあ」と鳴いた。
三日月には「ありがとう」と聞こえた。
猫はその一言を最後に、ちょうど帰宅してドアを開けた父親の横をすり抜けると、夜の闇に消えた。
二度とその猫の姿を見ることはなかった。
(…まさか、あの時の猫だったりして)
三日月は夜風に靡くネコの黒髪に目を細めた。

「野良ネコなら俺が拾ったって悪くないだろう」
「…………」
「なぁ、ネコ?」

三日月の目に映るネコは表情を変えないが、内心の戸惑いを表すように瞳が揺れていた。
甘えたい欲求と自分を傷つけるのではないかという警戒心。
この巨大な世界で猫が一匹で生きていくのは大変だ。
敵なら山ほどいる。
彼らにとっては人間だって恐ろしいものだ。
寄ってくる人間すべてが良い人とは限らず、中には残忍な悪意をひた隠しにして近寄ってくるものもいる。
それを見分けることは容易ではない。

「おいで」

だがネコは三日月を見上げた。
見かけはどこにでもいる冴えないサラリーマンなのに、言葉の端々には今まで自分が出会ったことのない優しさが滲んでいた。
信じていいのだろうか。
そう躊躇う時点でネコは三日月を信じたいのだ。

「にゃあ」

ネコは三日月の差し出した手におずおずと自分の手を重ねた。
すると、その瞬間目の前の男が安堵したように目じりを和らげたのに気づいた。
たまらずネコは顔を背ける。
胸元にいいようのない感情が溢れそうになる。
ネコは奥歯を食いしばると表情を変えないよう努めた。
そう――自分はネコなのだ。
笑ったり、泣いたり……しないのだ。

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